鎌倉殿の史跡:炎上する将軍御所、北条義時と重鎮・和田義盛の「最終決戦」
源頼朝なき後の有力御家人同士の権力闘争。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見て、「えっ、今度はあの人が…」などと、次々と有力者が消えていくすさまじさに驚く人は多いだろう。その最終決戦が、執権・北条義時と、鎌倉幕府草創期から侍所別当(長官)としてにらみを利かせてきた重鎮の和田義盛との激突である。
北条義時が父の時政を追放した「牧氏の変」(1205年)以降、しばらく平穏な時を迎えていた鎌倉幕府に8年後、再び激震が走った。執権・義時の命と第3代鎌倉殿・源実朝の更迭を狙った大規模なクーデター計画(泉親衡の乱)が発覚したのだ。容疑者の数はおよそ200人。驚くべきことに、幕府の中枢に座る和田義盛の子息や親族が含まれていた。
義盛は「自分は関与していない」と主張。実朝は義盛に信頼を置いていたため、2人の子息には恩赦を認めたが、命を狙われた義時がどうしても許さなかったのが、義盛の甥で主犯格の和田胤長(たねなが)である。後ろ手を縛られ、引き回しのような形で義盛の目の前を連行されていった。所領も没収され、義盛は怒り心頭に発する。いつ激突が起きてもおかしくない不穏な空気に鎌倉は包まれた。
そして、1213年(建保元年)5月2日、鶴岡八幡宮に近い将軍御所を主戦場にした大規模な内戦が勃発。その模様は史書『吾妻鏡』に詳述されている。それによると、午後4時ごろ、和田の軍勢は3手に分かれて、将軍御所の南門と義時邸の西・北両門を急襲した(①)。さらに幕府の長老、大江広元邸も襲撃し、その先の政所周辺で幕府軍と激しい戦闘になった(②)。約2時間後、和田軍は御所の四方を取り囲み、矢を放つ(③)。
警護が堅かった南門も、義盛の三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)(※1)がついに打ち破り、御所南庭に乱入した(④)。強者(つわもの)の義秀は幕府の御家人らを次々と討ち倒し、火を放つ(⑤)。炎上する御所を後にして、将軍・実朝は義時や広元らに付き添われて北門から脱出、小高い丘を登り、故・源頼朝の眠る法華堂へ命からがら逃げた(⑥)。北門に立ちふさがるはずの、ある人物がその場におらず、みすみす見逃してしまったが、緒戦は和田側の優勢と言えた。