大切なのは「読むための言葉」。絶望から出発した言葉で、過剰な世界を整頓する
ヴラジーミル 何を言っているのかな、あの声たちは? エストラゴン 自分の一生を話している。
ヴラジーミル 生きたというだけじゃ満足できない。
エストラゴン 生きたってことをしゃべらなければ。
ヴラジーミル 死んだだけじゃ足りない。
エストラゴン ああ足りない。
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』
----------
「あなたは、言語みたいな存在なのね」と言われたことがある。
そのときのぼくは、問いかけられた言葉の意味がよく分からなかった。たしかにぼくは一日のうちの多くの時間、本を読み、文章を書いている。そういう意味では、言語と共に生きることが日々の習慣になっているようなところがあって、そんなことを言われているのかと思っていた。
言葉が眠るとき、世界が目を覚ます。裸体のような五月の夕刻には、銀色の冷たい空気が水のように世界を浸し、透明な光のなかのプリズムみたいに、薄い遠くの雲が桃色の光をチラチラと棚引かせている。いま世界が目の前に鮮やかに目を覚まして、ぼくの瞳になにかを訴えている。透明な空気を通過してきた光が網膜を少しずつ刺激して、脳の奥底で眠っていた言葉たちの群れが動き出そうとしている。「グラスに満ちた水のような空」。「金色の毛をなびかせる獅子の背中」。「忘れかけていた稜線の夕暮れ」。いくつもの言葉たちが、いまこの世界を少しでも摑もうと起き上がってくる。それでしかないこの風景を、どうしても言葉にしてみたいと溢れてくる欲望は、いったいなんなのだろう。もしもぼくがこの風景を詩にしたならば、この流れるような世界は再び眠りについてしまうだろうか。
詩人ゲーテの書いたファウストは、人生の旅の果てに目に浮かんだ美しい世界を前に「時よ、とどまってくれ」と、最期の言葉を想った。言葉が世界をなんとしてもカタチにしたいと願うことは、ぼくたちの不安から生じている。この美しい世界が、このどうしようもない悲しみが、この切実な愛の感情が、いま目の前から過ぎ去って流れていくこと。わたしはこうして生きていくのに、世界だけがあっさりと過ぎ去ってしまうような気がする。
言葉はそれを少しでも留めてくれるのではないか。あるいはもしかすると、この複雑すぎてわけの分からない世界を、きれいに整理整頓してくれるかもしれない。あるいはもっと、ぼくたちがなにか適切な言葉を見つけたなら、どんな変容が訪れても、大海の底に悠然と鎮座する巨岩のように、確実なものを与えてくれるかもしれない。言葉にはそんな確実性があるように思う。
しかし言葉は儚い。言葉は世界や感情に対して粗すぎて、ほとんどを取りこぼす。それにもかかわらず、ぼくたちは言葉によってしか自分の感情を思考したり理解したりすることができないのは、なんと不幸なことだろうかと思う。強い感情の前で、言葉はほとんど無力だ。だから、言葉にばかりたよって生きていると、ふとした時にその力のなさに愕然として、なにもかもが分からなくなるときがある。しかしそれしかぼくには方法がないように思う。いや、ぼくたちは誰もが、この弱々しい言葉とともに生きている。
言葉は、確実で儚い。この複雑で不安定な世界を受け止める、確実な地盤を与えてあげるよとぼくたちを誘いながら、その安心を求めて言葉にしがみつこうとすると、するりと手から抜け出して煙のように消えてしまう。それどころか言葉にはたったひとつの意味などないのだと、無限の意味の変化をちらつかせ、ぼくたちを不安にさせる。あのとき信じようとした言葉のたしかさは消え失せ、最初にいた場所よりもはるかに混沌とした世界が目の前に立ち上がってくる。
ぼくは日々、言葉を読み、書き、話して生きている。言葉によって世界を整頓して解き明かしながら、同時に、言葉によって千変万化する世界へと迷い込んでいた。そうか、「ぼくは言語だ」と思った。言葉は誘いながら裏切る。ぼくたちは不安を言語によって鎮めようと望むとき、いつでもこの矛盾に裏切られる。言葉は終に世界を安定させてくれない。言葉に希望を見出しながら、最後は言葉の無力の前に立ち尽くす。
もしもそんな言葉がなにかしらの力を持つことができるとしたら、それは言葉の無力さへの絶望を知ったときだ。絶望から出発していない言葉には力がない。言葉などいらないかもしれない世界で、なにかを語り、なにかを書くということ。ほんとうの哲学や詩は、荘厳な体系や神秘のそよぐ音韻の背後に、どこかそのような絶望を抱えているのではないかと思う。
書かれた言葉の背後には、書かれなかった無数の言葉がある。無数の死者たちが生者たちを支え、無数の非存在が存在を支えている。だからせめて、ぼくはいつも、この夥しい無を祝福したいと思う。