病気を宣告され、入院した父の訃報を待つ1年間だった。私は果たして、何を待っていたのだろうか?
『新しい哲学の教科書』『〈普遍性〉をつくる哲学』の著者、岩内章太郎さんによる、亡くなった父をめぐって綴る新連載「星になっても」が『群像』2023年9月号から始まります。それに先駆けてご寄稿いただいたエッセイ「訃報を待つ」(『群像』2023年6月号掲載)をお届けします。
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入院が決まってからちょうど1年間、父は骨髄異形成症候群という難病と闘い、2023年2月7日10時56分、70歳の誕生日に死んだ。最期は急性骨髄性白血病への移行が認められた。私は自宅のある豊橋で父の訃報を母から伝えられ、やり場のない思いを札幌の病院のベッドで横たわっているであろう父の亡骸に馳せたのである。
だから、私は1年間、父の訃報を待っていたことになる。しかし、人間は必ず死ぬのだから、よく考えてみれば、私は父の死を36年間待っていた、とも言えるのかもしれない。それでも、健康診断で貧血の診断を受け、精密検査をして先の病気が判明してからの1年間は、父にとっても私にとっても、母にとっても弟にとっても、死を待つ特別な1年間だったはずである。端的に言えば、辛い1年だった。
1歳と3歳の息子を連れて豊橋から札幌に行くのは、それなりの準備と覚悟を要したが、妻は愚痴もこぼさずすべての準備を整えてくれた。長男は豊橋駅に向かう途中のタクシーで、いつか自分も死んでしまうのか、と、私と妻に訊ねた。不安そうな顔をして、自分は死にたくない、とも言った。札幌の月寒の葬儀場には大人数が寝泊まりするための広い畳の部屋があり、そこで次男は地道にトレーニングを重ね、葬儀が終わる頃には歩けるようになった。
死にゆく父の傍らで、2人の兄弟は精神的にも肉体的にも成長していく。その光景を見て、私は、息子の父としてうれしくもあり、父の息子としてかなしくもあった。何となく、生と死の間に挟まれたような、そんな気分だった。いつ来るかも分からない父の訃報を待ちながら、私は、半分大人で、半分子どもで、誰もが青年期に感じる居場所のなさに似た感覚を久しぶりに味わったのである。
待つとはどういう体験なのだろうか。ベルクソンは、砂糖水をつくりたいなら、砂糖が溶けるのを待たなければならない、と書いていたが、ここに表現されているのは、砂糖水をつくりたいという欲望が待つという内的な時間性をつくりだす、ということである。しかし、父の訃報を待っていて気づいたのだが、むしろ人は何かを待つことによってそれを求め始めることもある。
一方では、父の死をできるだけ先延ばしにしたかったが、他方では、父の死を待つことで、その到来をどこかで待ち望んでいる自分を見つけてしまうのである。この不謹慎な事実をうまく処理することができず、私は人間の心の機制に戸惑った。時々、自分が何を待っているのかが分からなくなった。