【書評】中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した日本人を描く:沢木耕太郎著『天路(てんろ)の旅人』
ノンフィクション作家の第一人者、沢木耕太郎の最新作が刊行された。主人公は、終戦前後、密偵として蒙古人のラマ僧に扮し、広大な大陸を中国、チベット、インドと7年に渡って徒歩で旅を続けた西川一三(にしかわかずみ)。著者は「稀有(けう)な旅人」西川との出会いから25年を経て、渾身(こんしん)の作品を書き上げた。
「これが最後の作品になってもよいと思った」と著者は語っている(NHKクローズアップ現代1月10日放映)。それほど思い入れの強い作品なのだ。
著者の作品の特色は、書き手が前面に出てくることだ。本作でも、西川との出会いから章を書きおこしている。当時、西川は盛岡で小さな化粧品卸の店を営んでいた。すでに80歳になろうかという高齢者だが、著者は西川の印象をこう書いている。
「そこには、強い信念を抱いて生きてきたに違いない、ひとりの旅の達人、いや人生の達人がいるように思えた」「鋼のように硬質な、あるいは胡桃の殻のように堅牢な人生が存在しているかのように思える」
西川は、帰国後に『秘境西域八年の潜行』(1967年)という長大な書物を遺しているが、人口に膾炙(かいしゃ)したとはいいがたい。著者は1年間、盛岡に通い、インタビューを重ねた。西川の没後、3200枚の原稿を遺族から預かり、本書を書き上げるまでに7年の歳月を要したという。それほど西川の旅は遠大なものだったのである。
どういう人物であったか。西川は1918年(大正7年)山口県の出身で、農家の次男として生まれた。福岡の名門・修猷館中学に進み、卒業後、満州の満鉄に就職する。その頃には約180センチの偉丈夫であったという。
ときあたかも日本と中国は全面戦争に突入していた。当時の内蒙古は日本軍の支配下にあり、西川の仕事は現地の日本人職員のための生活物資の調達であった。しかし、入社して5年後の41年(昭和16年)、満鉄を退社し、内蒙古に設立された「興亜義塾」に入る。大陸進出の国策に伴い、現地で活動する有為な人材を育てるための教育機関である。若き日の西川には志(こころざし)があった。
しかし、ここからが運命の分かれ道だった。卒業間近に塾内の喧嘩騒動に巻き込まれ、西川は退塾となるが、この地を離れるつもりはなかった。西北アジアの奥深くまで探索したいという願望は捨てがたい。「潜入して、日本人にとって未知の部分の多い地域についての知見を深めたい。それは結果として中国とのこの戦いに大いに益するはずだ……。」かくして西川は伝手(つて)を頼り、特務機関の密偵となったのである。