米津玄師は「50代の僧侶」だと思っていた… スタジオジブリ鈴木敏夫さんが語る「クリエイターとの出会い」
宮崎駿(※崎=たつさき)、そして高畑勲を支えた「スタジオジブリ」の名プロデューサー、鈴木敏夫さん。今年開催された「鈴木敏夫とジブリ展」では、8800冊の蔵書の展示が話題になりました。この展覧会の準備として行われたインタビューは、著書『読書道楽』にまとめられています。それぞれの本の思い出、さらにはクリエイターとの出会いについて聞きました。
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―『読書道楽』は、「鈴木敏夫とジブリ展」で展示された鈴木さんの蔵書についてのインタビューがもとになっていますね。
書斎や書庫、仕事場など、あちこちに置いてある本を一堂に会して眺めてみたいと、何年も前から密かに考えていました。ありがたいことに、この展覧会をきっかけに実現できましたが、正直なところ「意外に少ないな」と感じました。僕が生きてきた74年間は、こんなに短いのかと思ったんです。
僕が本をたくさん所蔵していると知った方々から、「父が持っていた古い『キネマ旬報』、よかったら」みたいに、提供いただくこともありました。ご縁があり、作家の堀田善衞さんや永六輔さんの蔵書の一部もご遺族から預かっています。
そういった本も集め、ジブリパークに図書館を作れたら面白いと、今、宮崎吾朗君とも話しています。でも宮さんに言ったら、「え!? 俺、もう本ないよ!」と返してきて、どうやら所蔵していた本は処分しちゃったらしいです(笑)。
―10代の頃、石坂洋次郎などの流行小説を読み、東京に憧れたというお話が興味深いです。また、主に大学時代に読み、今は忘れている本を思い出したかったのも動機の一つと書かれています。
僕が生まれ育った名古屋は、良くも悪くも古いものを大事にする土地でした。「東京へ行けば束縛から解放される」「抜け出したい」という気持ちは、小説を読むことで自分の中に生まれた感情でした。その点、石坂洋次郎などの作品が果たした役割は大きかった。
18歳で上京してからの数年間は、人生で最も読書していた時期でした。でもおカネがなかったから、残念ながらほとんどの本は読み終わると売って、食費と遊興費に換えてしまった。家から30秒の場所に古本屋があり、ずいぶん売りました。たいして高く買ってもくれず、そのカネを使い終わった時のむなしさといったら(笑)。