戦地で編まれた日本兵の寄稿文集、ありのままの記録…編集者「歴史を正しく伝える」 #戦争の記憶
武富さんは陸軍偵察機のパイロットとして、太平洋戦争で東南アジアに展開した飛行第81戦隊に所属。インドネシアに駐留中の1942年4月、戦死した隊員の追悼文集「別れ鳥」50部を発行した。
武富さんの長男で現館長の慈海さん(74)によると、発行は上官の日向英吉准尉(後に少尉)が提案した。武富さんは紙の調達に奔走し、任務を終えた夜間、部下3人と編集し、1枚ずつガリ版刷りで制作した。
「別れ鳥」は好評を博し、武富さんは100人規模の隊員に寄稿を募り、立て続けに200ページ近い文集を各55~100部発行。内容は詩や短歌、随筆などバラエティーに富み、多くは軍での日常生活や豊かな自然への感動をつづったものだ。転戦したミャンマーでは現地の食糧事情を受け、「代用食」を取り上げた寄稿も目立った。
明日をも知れない戦場で、何が武富さんを文集作りに駆り立てたのか。慈海さんは武富さんの脳裏に、ある有名パイロットの死が刻まれていたからだと推し量る。
41年暮れに事故死したこのパイロットについて、軍は「壮烈なる戦死」と事実と異なる発表をした。最期を知る武富さんは「ありのままの記録だけが、歴史を正しく伝える」と終生、語っていたという。
文集は、日向少尉の戦死を悼み、44年9月に発行した「熱血の翼」が、最後になった。
武富さんによると、日向少尉は締め切りを過ぎても原稿を出さない隊員に雷を落としていたという。「文筆の拙き者は拙きままに、暇なき者は暇なきままに、真心を捧げて書けばそれでよいのだ」。武富さんは戦後の73年に発行した戦隊の記念誌で、日向少尉の言葉を紹介した。