【戦後78年発掘秘話】日本軍によるベトナムの悲劇「ランソン事件」秘録
私はBC級戦犯裁判の中でも、知られることの少ないフランス領インドシナ(仏印。現ベトナム、ラオス、カンボジア)、サイゴン(現ホーチミン市)で裁かれたある事件に取材し、『忘れられたBC級戦犯 ランソン事件秘録』(中央公論新社)を6月に上梓した。
1945年3月、日本軍は仏印北部、中国との国境に近いランソンという町で、降伏した300人の捕虜を銃剣や鶴嘴(ツルハシ)などを使って殺害した。事件は地名をとって「ランソン事件」と呼ばれ、1950年、4人の将校が死刑判決を受けた。執行は翌年のことだった。敗戦から6年近くが経っていた。
戦時中、日本はフランスと同盟関係にあり、植民地でも同様に友邦の関係を持っていた。ところが戦争末期になると、対日非協力の姿勢が露骨になる。戦局も行き詰まった日本は、南方の拠点としてインドシナを安定させるべく「明号作戦」を発起、植民地解体を行う(仏印武力処理)。
作戦は順調に進捗したが、北部ではフランス植民地軍による頑強な抵抗を受け、多数の犠牲者を出した。ランソンはそのひとつだった。捕虜殺害はこの過程で起こった。
上掲書で、筆者は裁きを受けた4人の将校、弁護にあたった弁護士2人の姿を描いた。
関係者の遺族や実際に裁きを受けた元戦犯に取材したほか、裁判記録をはじめ膨大な資料に目を通した。銃殺刑となった人の遺稿の現物も手にとった。
小さく丁寧な鉛筆書きの字で、余白もないほどに思いが綴られていた。名利を実行したに過ぎないのに罪に問われたことへの疑念は尽きず、しかし現実を受け入れ、自らが戦後になって、戦争のために死ぬことをいかに捉えるか、狂おしいほどに考え抜いたことがありありと感じられた。