アンディ・ウォーホルを語る上で欠かせない「13人の人物図鑑」を紹介
1. ジュリア・ウォーホラ(1891-1972)
3人兄弟の末っ子アンディに絵を教え、息子が成功するとニューヨークに出て、生涯の大半を同居して過ごした母。信心深く、自らを「年寄りの百姓女」と呼び、家事全般を担う。多くの猫を飼い、息子とふたりで別々に描いた猫の絵本を合本にして出版もした。長年にわたる飲酒癖のためか1971年に脳卒中に襲われ、故郷ピッツバーグに戻って入院する。ウォーホルは毎日電話をかけ、お忍びで病院に通ったという。母親の死後に制作した肖像画には、宗教画に見られるような光彩が描かれている。
2. チャールズ・リザンビー (1924-2013)
ウォーホルが若き日に知り合ったボーイフレンドのひとり。テレビ番組のセットデザイナーで、のちにエミー賞を3回受賞し、業界の重鎮となる。「背が高く、色が黒く、乗馬好きの南部の家の出身」で、ドローイングのモデルとなり、一緒にオペラを鑑賞し、展覧会を観て回り、絵本を共作した。1956年には6週間にわたる世界一周旅行をともにし、日本では東京以外に京都などの地方都市を見物。後年のボーイフレンドと異なり、性的関係は結ばず、友情以上恋愛未満だったとされる。
3. マルセル・デュシャン(1887-1968)
便器に偽のサインを施しただけの『泉』(1917年)など、既成品を選び、名づけ、別の意味をもたせる「レディメイド」を考案した現代アートの父。ウォーホルは後年『泉』のレプリカを購入している。代表作の『花嫁は裸にされて彼女の独身者たちによって、さえも』(1915~23年)は、性の欲動と宇宙の生成原理を主題とし、世界の理を追究する作品。「父」を超えようとした後進は多いが、当然容易ではない。ウォーホルだけが「世界を所有する/世界になる」という野心的な目標を掲げ、「父」に肉薄した。
4. トルーマン・カポーティ(1924-1984)
19歳でオー・ヘンリー賞を受賞した早熟の天 才小説家。30代前半で発表した『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘップバーン主演で映画化された。本人いわく「私はアル中である/ヤク中である/ホモセクシュアルである/天才である」。ウォーホルはその才能と美貌の虜となり、ストーカーまがいの行動に出るが、後に親しくなる。1966年、『冷血』が世界的ベストセラーとなり、「アメリカが凝縮された」と評された仮装舞踏会を主催。招待客の豪華さは、ウォーホルを呆然とさせた。
5. エミール・デ・アントニオ(1919-1989)
通称は「ディ」。「エージェントのようなもの」として、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステラら歴史に名を残すアーティストが世に出ることに一役買う。ウォーホルが初めて描いた油画はコカ・コーラの瓶がモチーフだったが、抽象表現主義的タッチの残るものと無駄な線を省いたものの2点を見せられ、迷わず後者を推す。ポップアーティストとしてのウォーホルの進むべき道を決定した歴史的瞬間だった。政治的なドキュメンタリー映画製作でも知られる。
6. ヘンリー・ゲルツァーラー(1935-1994)
「死と惨事」シリーズなど、多くの着想をウォーホルに与えたキュレーター。ドル札やキャンベルのスープ缶のアイデアも友人からもらったウォーホルは、「ポップは外部から来るもの」と平然としていた。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレで米国館コミッショナーを担当。毎日何時間も長電話をする仲だったが、ウォーホルのライバル、ロイ・リキテンスタインや、同い年のヘレン・フランケンサーラーを出展作家に選んだことで不仲になる。その後、関係を修復。生涯よき友にして庇護者だった。