【書評】『日本のインテリジェンス史ー旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(小谷賢 著・中央公論新社)
しかし忘れてはならないのが、西側のインテリジェンス支援だろう。ニュースからもそれが垣間見える。ロシアの戦闘車両や艦船の正確な位置をウクライナに伝えているようだし、複数のロシア軍将官級の戦死も西側は人定も含めて発表している。
ひるがえって日本はどうなのだろうと考え、今回の書評では『日本のインテリジェンス史ー旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(小谷賢 著・中央公論新社)を取り上げようと思う。
日本のインテリジェンス活動は、なんとなく今一つという感がある。それにいろいろな問題も長く指摘されてきた。この本では大きな問題の一つに、「日本の縦割り行政の弊害」を指摘しているが、著者によればそれは戦前から続く日本の悪い一面だという。
「戦前の日本のインテリジェンスは、陸海軍の情報部や特務機関、憲兵隊、外務省調査部と領事館警察、内務省警保局と特別高等警察、司法省刑事局といった組織がそれぞれ担っていたが、これらの組織がコミュニティを形成したことは一度もなかった」
それどころか…
「例えば太平洋戦争中、日本陸軍は米軍の高度な暗号の一部を解読していたが、海軍はそれを解読することができず、陸軍は海軍が解読できないことも把握していた。米軍の矢面に立たされる海軍こそ米軍の暗号解読情報が必要であったにもかかわらず、である。陸軍は自分たちの暗号解読情報が「陸軍の」機密事項にあたるとして、海軍にそれを提供しなかったのだ」
戦争に勝つ気があったのだろうか。
そういった日本のインテリジェンスの“伝統芸”は戦後も引き継がれたが、少しずつだが改善もされてきた。
たとえば、1983年の大韓航空機撃墜事件。ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きのKAL007便がソ連防空軍の迎撃機・スホーイ15のミサイル攻撃により撃墜され、乗員乗客269人全員が死亡したという、痛ましい事件である。
当時、北海道・稚内で在日米軍と陸上自衛隊の稚内分遣隊が、ソ連防空軍の無線通信をそれぞれ傍受していた。米軍のほうは「目標を撃破」というパイロットの交信をたまたま確認していたが、陸自の傍受隊はそれより早く、ペトロパブロフスク周辺空域で「識別不明機」に対するスクランブルがかけられたことをキャッチ。傍受班は緊急強化配備態勢で、迎撃機と地上基地との交信を傍受し続けた。そして…
「午前3時25分45秒にミサイル発射、その35秒後に目標が撃破されたというやり取りを鮮明に録音することに成功する」
しかし陸自も在日米軍も、何が撃墜されたのか把握できないでいた。しかも、米軍の録音テープはノイズが多く、よく聴き取れなかったらしい。
その後、ワシントンでは様々な機関が情報収集につとめ、すべての情報はCIAに集約された。そして撃墜から約12時間後の日本時間午後3時すぎに、CIAはソ連が撃墜したのは大韓航空機であるとの結論に至った。
一方、日本では時の官房長官、後藤田正晴氏が午前8時半に韓国の民間航空機が行方不明の報を受けている。無線傍受情報は極秘裏に扱われていたが、おそらくこの時点で撃墜されたのは大韓航空機だと後藤田氏は直感しただろう。そして他の関連報告を受け、午後1時ごろに防衛事務次官ともに中曽根首相に報告に上がっている。その中曽根氏が撃墜情報を知ったのは、午前4時ごろ(事件発生から約30分後!)、事情が正確に把握できたのは昼ごろ(おそらく後藤田氏の報告を指しているのだろう)と、『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(中曽根康弘 著・新潮社)に記している。
この限りで見ると、ワシントンより東京のほうが事実の把握は早かったようだ。
しかしこの後、問題が発生する。
アメリカのシュルツ国務長官が独断でテレビ会見を行い、ソ連が大韓航空機を撃墜した事実を公表したが、その際、情報源をも明らかにしてしまったのである。
日米のインテリジェンス組織はともに動揺した。日本の鮮明に録音された撃墜時のテープは、中曽根首相の決断でアメリカ側に渡されていたのである。
さらに国連の安全保障理事会でのテープの公開も要請され、日本はそれに同意せざるを得なくなった。これによってソ連は事実をしぶしぶ認めることとなった。
著者も記す通り、それは日本の「大金星」に映るが、そうではない側面もあった。日本やアメリカが極東ソ連防空軍の通信電波を密かに傍受していたことを知り、ソ連は通信周波数の変更、そして暗号化という防御策を講じたのである。
これについては、思い起こされる第2次大戦時のイギリスのチャーチル首相のエピソードがある。
解読不可能と思われていたナチスドイツの暗号・エニグマを天才数学者アラン・チューリングが解読に成功。そしてロンドン近郊のコベントリーを空襲することを事前に知った。ところがチャーチルは何の対策もとらなかった。コベントリー市民の命より、暗号解読の事実をドイツに知られることを恐れたのだった。(注1)
最高戦争指導者が迫られる「究極の選択」ともいえるが、ともに諜報情報の扱いの難しさを知るいい例である。