英誌が分析「渋谷のんべい横丁」が世界の都市開発のモデルになる理由
東京の近代史を振り返ってみれば大方、そこは「誰もがこき下ろしたくて仕方ない世界都市だった」と東京についての本を何冊か書いているポール・ウェイリーは述べる。
都市とはこう見えるべき、こう感じられるべき、こう機能すべきという、西洋なり中国なりの伝統的な観念に、東京は従わなかった。秩序と権威を示す碁盤の目のような通りの代わりに、くねくねした区域がつぎはぎ状になっていた。
度重なる災禍で、目立った史跡もほとんど残っていない。包括的なスタイルもなければ、記念碑的な価値の感覚もない。
東京を訪れる者たちは戸惑い、がっかりさせられることが多かった。19世紀後半、イギリス人の旅行家イザベラ・バードは、東京を「壮大さもないのに『壮大な広さ』はある都市」と片づけている。
東京の前身である江戸が発展したのは、徳川将軍が17世紀の初めに天下統一を果たし、幕府を開いてからのことだった。
碁盤目状に沿って拡張された地区もあれば、地形に合わせて拡張された地区もあった。それぞれの地区は互いに、ある種の計算された矛盾のうちに組み合わされた、まさに「パッチワークのキルト」のようだった、とタイモン・スクリーチは『東京の前の東京』(2020年刊、未邦訳)で書いている。
京都は天皇家の住むところであり、したがって正式な都であり続けたが、江戸がほどなく優位になった。1720年代の初め、江戸は100万人が住む、世界最大の都市だった。地震や火事にたびたび見舞われたものの、文化が栄えた。
明治維新により徳川幕政が終わり、1868年に日本が開国してから、天皇は江戸に住まいを移した。江戸は、東京と改名された。読んで字の如く、「東の京」だからだ。