司馬遼太郎生誕100年 同僚の廓正子さんが語る「新聞記者・司馬遼太郎」
(聞き手 亀岡典子)
司馬さん、いえ、当時、私たちは本名で福田(定一)さんと呼んでいましたが、産経新聞大阪本社の文化部にいらした頃は部員の人数も多く、30人以上はいたんじゃないでしょうか。大変活気があって、文学の話、美術の話、芝居の話など部員同士で交わす会話も刺激的でした。
福田さんが記者時代になさった仕事で素晴らしかったのは、昭和30年代に「美の脇役」という連載を企画されたことです。京都や奈良を中心に、書院ふすまの引手、山道の石仏など、主役ではないけれども独自の存在感を放つさまざまな美に焦点を当て、後にフリーの写真家になった井上博道さん(故人)の迫力ある写真とともに掲載した連載で、後に単行本にもなりました。
福田さんが文化部の前、京都支局(当時)にいた頃、西本願寺の記者クラブの長椅子でよく寝ていたそうですが、井上さんが龍谷大学(京都市)の屋根の上に登って写真を撮っていたのを見て、「うち(産経新聞)に来い」と誘ったのが、プロのカメラマンになるきっかけだったそうです。優秀なカメラマンを発掘し育てた功績もあったのではないでしょうか。
30年代には作家として執筆活動をされており、新聞記者と作家という二足のわらじをはいていた時期もありました。35年に「梟の城」で直木賞を受賞されましたが、私たち文化部の人間とは変わることなく接していました。気難しい人ではなかったですね。
懐かしく思い出されるのは、福田さんが蒙古語(モンゴル語)も堪能だったので、あるとき、「廓正子って蒙古語でどう書くの?」と聞いたことがありました。福田さんはスラスラ書いてくれて、「ひげ文字やなあ」と笑い合った、そんな思い出があります。