和歌山城再発見 一ノ橋と大手門 平和な雰囲気で客人を出迎え
高麗門は、慶長5(1600)年の関ケ原合戦後に考案された、わが国独特の形式で、屋根が小さく見通しが効くことで、以後広く城門に採用されていきました。
その大手門は、明治42(1909)年に自然崩壊し、昭和57(1982)年の木造復元まで、北堀にかかる一ノ橋のみとなってしまいました。
一ノ橋は、元和7(1621)年に架けられたものでしたが、老朽化のため大正5(1916)年に改築され、昔日の姿は、明治初年に撮影された古写真で知るのみになってしまいました。しかし、大手門復元の翌年に一ノ橋も架け替えられ(平成13年修築)、大手門とともに昔日に近い姿で見ることができるようになりました。
関ケ原合戦後、豊臣(城代・桑山)氏に代わって、浅野氏が紀伊国の領主として和歌山城に入り、城郭の増改築に着手しました。その一つが大手口を南側から北側に移して「市ノ橋門」を大手口としました。これに伴って東に開けつつあった城下町も北方に移っていきました。
大手門の復元に先立って行われた発掘調査で、崩壊した江戸時代の大手門礎石とそれ以前の門礎石が確認されました(史跡和歌山城保存管理計画書・資料編)。この古い礎石は、浅野期和歌山城の市ノ橋門と考えられていますが、その構造については明らかではありません。のち徳川期の寛政8(1796)年6月に一ノ橋門は「大手門」と改称されましたが、橋はそのまま「一ノ橋」の呼称で残されました。
JR和歌山駅からバスに乗車して「和歌山城前(旧公園前)」で下車すれば、すぐ前に一ノ橋と大手門が目に映ります。その光景は堅固な構えと言うより、簡素な造りに感じられます。しかし、一ノ橋が架かる北内堀幅は、現在約25メートルですが、明治時代に路面電車の線路敷設で埋め立てられるまでは、幅約42メートルもありました。
その北方と東方は三ノ丸で、現在の京橋辺りに三ノ丸大手として大きな「京橋門」が行く手を阻み、外堀と大土塁で三ノ丸を囲んでいました。さらに、京橋門から一ノ橋大手門に至る大手道の両脇を付家老の安藤家(田辺城主)と水野家(新宮城主)が屋敷を構え、一ノ橋の大手門前には筆頭家老の三浦家屋敷など家臣の屋敷が立ち並んでいました。
このように一ノ橋と大手門は、三ノ丸の厳重な守りを前に建てられていたのですが、それを感じさせない平和な雰囲気を漂わせるなかで、客人を迎えようとしたのかもしれません。(文・写真 日本城郭史学会委員 水島大二)