日本にある「キリストの墓」を仏高級紙記者はどう取材したか?
ところが、この鳥谷は「竹内文書」なるものにすっかり夢中になっている人物だった。
竹内文書とは当時、超国家主義者たちの間で人気だった文書だ。それは鹿の皮に奇妙な文字で書かれており、神道系の新興宗教「天津教(あまつきょう)」の開祖だった竹内巨麿(たけのうちおおまろ、1875‐1965年)によれば、3500年前に書かれ、竹内家に代々伝わるものだという。
神武天皇(紀元前711‐585年)という神話上の天皇の治世の前に展開された日本の秘史が、そこに記されているというわけだ。この文書は1945年に東京での空襲で焼失してしまったが、そこには釈迦も孔子も孟子もモーセも、みな日本で宗教の修行をしたことになっていた。
北海道大学で観光学と宗教学を研究する岡本亮輔によれば、当時は日本の優越性を謳うプロパガンダの全盛期であり、「これらの文書は、中国の文化も、西洋の文化も、もとをたどれば日本が発祥だと示そうとした」ものだった。
竹内文書によれば、キリストは2度、日本に滞在している。1度目は越中(現在の富山県)に滞在し、地元の神々を研究してからパレスチナに帰り、洗礼者ヨハネや弟子たちに日本での経験を語ったというが、それがユダに裏切られた理由かどうかまでは書かれていない。しかし、弟のイスキリが身代わりとなったので、キリストは磔刑(たっけい)を免れたとは記されている。
キリストはその後、イスキリの耳と聖母マリアの頭髪を一房持って逃げ、日本へ向かった。シベリアを徒歩で横断し、アラスカまで渡った。4年におよぶ旅の末、キリストは船で八戸に到着し、そこから新郷村にたどり着いたという。