遺族代表「何とか生きてこられた」亡き父に感謝の言葉 神奈川県戦没者追悼式
「沈みゆく軍艦の中、どれだけ、もがき苦しんだことでしょう。家族を残し、父母に先立つ気持ちを思うと、今でも胸が苦しく張り裂けそうです」。横浜市泉区の金松美恵さん(83)は遺族代表としてあいさつし、亡き父をしのんだ。
海軍に所属していた父、櫛原祥太郎さんの訃報が届いたのは昭和18年4月2日。その日は金松さんの3歳の誕生日だった。日本軍の拠点だった太平洋のトラック諸島(現チューク諸島)に向かう軍艦が撃沈され、戦死したという。
残された祖母と母、兄、弟、妹で助け合って戦中、戦後を生き抜いた。わずかな配給を分け合う苦しい生活に母が線路に飛び込んで一家心中を図ろうとし、踏みとどまったこともある。
苦境の中、金松さんの支えとなったのは父の存在だった。父の記憶はなく、海軍に所属する前は宮大工をしていて書道が得意だったと聞かされていた。家族と離れ、死亡した父の無念さを背負うことで「命を粗末にするようなことはあってはならないと考え、どんなにつらい思いをしても私は何とか生きてこられた」。
この日の式典の言葉には「生かしてもらったという感謝を込めた」といい、「祖母も母も兄、弟、妹も父のもとに旅立った。できる限り、その命を伝えていきたい」と語った。
県内関係の戦没者は約5万8千人。県遺族会によると、会員が約7800人で、平均年齢も80歳を超えているという。黒岩祐治知事は「戦争を二度と繰り返さない。この強い決意のもと、若い世代が夢や希望に満ちあふれた平和な世界を歩み続けることができるよう努力し続ける」と決意を述べた。(高木克聡)