なぜ、ハイデガーの「ナチ加担」は学生に熱狂的に支持されたのか?
第一次世界大戦後のドイツでは、「フォルク(Volk)」(一般に「民族」、「国民」、「民衆」などと訳される概念)への関心は時代の一般的風潮となっており、とりわけ青年運動や学生運動を担っていた若者たちのあいだでは広く共有されていた。
もともと大学の外で生まれた青年運動の影響を受けつつ、20世紀の初頭に勃興した学生運動はかねてより、学問が専門分化し、「生から疎遠に」なっていることを批判し、学問の刷新と大学改革を唱えていた。第一次世界大戦の敗北によるドイツ民族の分断やヴェルサイユ条約によって課された莫大な賠償金の負担、労働者と有産市民層の格差の拡大などの状況に直面して、学生たちは「フォルク」の結集、統一を求める姿勢をさらに強めていった。彼らは既存の学問がそうした問題の解決に無力であることを批判し、「フォルクのための学問」を求めたのだった。
その際、学生たちから厳しい非難のやり玉に挙げられたのが、マックス・ヴェーバー(1864―1920)が講演「職業としての学問」(1917年)で唱えた「価値判断を交えない学問」という理念だった。この講演自体は、学生団体の草分けであった自由学生連合の依頼で行われたものだった。専門分化して生と隔絶した学問を批判し、学問に対して生の指針を求める若い学生たちをたしなめる形で、ヴェーバーは学問が価値判断から距離を取るべきことを主張した。教師は教壇において自身の政治的立場を説くべきではなく、また学生たちも教師に「世界観」を期待すべきではないと主張し、学生たちに日々の地道な仕事に戻るよう勧告したのである。
しかしヴェーバーの勧告もむなしく、先ほども述べたとおり、学生たちの学問の刷新に対する待望は第一次世界大戦後も弱まることはなかった。それどころかヴェーバーの「価値判断を交えない学問」という理念のほうが学生たちから攻撃の的とされたのだ。