『週刊少年ジャンプ』の歴史からひも解く、マンガ雑誌の文字とデザイン
「マンガ雑誌の話をする」となったとき、その多くは作品のストーリーやキャラクターの話になることは多い。あるいは描かれた絵の美麗さや迫力を語る向きもあるかもしれない。しかし、こうしたマンガの要素を印刷によって紙に定着させてきた、紙と文字による「マンガ雑誌」というマテリアルそのものについてはどうだろうか。見過ごされがちなこの紙と文字について深掘りしたいというのが本記事のねらいだ。
今回は、マンガを支える要素のなかでも、とくに「文字」について考えていきたい。日本のマンガにおける表現の独自性のひとつに、吹き出しの文字の大きさやフォントのバリエーションの豊かさがある。迫力のあるセリフであれば文字サイズを大きくする、キャラクターの語りのニュアンスを伝えるためにフォントを変えるなど、様々な創意工夫が文字において行われてきた。
マンガを読むときは物語に没頭しており、文字そのものを意識することは稀であるが、私たちが知覚するその体験をつくり出すにあたって、文字が果たしてきた役割は大きいといえる。また、作品のイメージを端的に伝えるタイトルロゴもマンガにおける「文字」の重要な文化といえるだろう。こうした「文字」の表現がいかにかたちづくられたのか、『週刊少年ジャンプ』を例に、往時を知る関係者の言葉から解き明かしていきたい。
活版から写植への移り変わり
具体的な話に入る前に、まずは印刷の歴史として、「活字組版(活版)」と「写真植字(写植)」について確認したい。
「活字組版(活版)」とは14世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが発明したとされる印刷技術で、活字と呼ばれる金属製の字型を組み合わせてレイアウト(組版)をし、そこにインクをのせることで印刷を行うものだ。
活版は長く日本の印刷において使われてきたが、50年代以降は次第に「写真植字(写植)」へと変わられていく。写植とは、写真植字機(写植機)を用いて文字のネガでをつくり、それを版下として印刷を行う技術だ。活版のように大小様々な大きさの活字を必要とせず、またフォントのバリエーションも格段に多くなる。写植はやがてコンピューターを介したレーザー印字へと技術が進み、現在のコンピューター上で製版が完結するDTPへとつながっていった。日本のマンガ雑誌においては、こうした写植の技術はどのように使われ、そして変遷して表現を洗練させていったのだろうか。
最初に話を聞いたのは集英社の現会長の堀内丸恵だ。1975年に『週刊少年ジャンプ』編集部に配属、秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の初代担当編集だったことでも知られている。当時のマンガ雑誌の文字はいかに行われていたか。堀内は当時を振り返りつつ、次のように語った。
「私が『週刊少年ジャンプ』の編集部に配属されたのは1975年ですが、そのときにすでに主流は写植になっていました。校了が迫るなかでも、写植はすぐできてくるので、それを切って僕ら編集者が原稿のセリフの箇所に貼る、なんていうこともできた。だから、だんだんと写植が主流になっていたんですね。活字の場合は文字サイズを調整して、きれいに組版をして吹き出しのなかに入れなければいけない。ベテランの植字屋さんは早いけれど、やはり時間がかかりますし、写植と比べると締め切りが3日か4日は早い。ただ、例えば、僕が担当していた小林よしのり先生の『東大一直線』や、秋本治先生の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は原稿が早かったので、何号サイズの活字で版をつくってほしい、といった依頼をすることもできたんです」。
活版から写植への移行期を知る堀内。毎週の締め切りに追われる週刊マンガ雑誌ならではの、スピード感を求める現場では、写植が重宝されていたことがよくわかる。しかし、こうした表現に関わる文字について、マンガ家の権限はどれほどあったのだろうか。
「『通常の吹き出しはこの大きさ』『心の中で思っているときはこのフォント』という基本ルールはありました。ただ、吹き出しが大きかったりする場合、それに合わせてすべて編集者が大きさを指定していた。基本的にはすべて編集がやっていたわけです。編集部で共通の級数表もあるわけではなく、感覚的なものでした。僕らの時代はコピーが貴重でFAXも普及していなかったので、ある程度下絵ができあがった段階でマンガ家の仕事場にトレーシングペーパーを持っていって、自分で文字を写す、なんてこともやっていました。行変えや誤字脱字をチェックしながら、手描きのセリフを映していくんです。そして、赤字で『18級』『アンチ』『ルビツキ』などを指定して、共同印刷の写植のための子会社に持っていき、そこでオペレーターに文字を打ってもらう。その写植を見て間違いがあれば、さらに切り貼りの手作業をしていました」。
いっぽうの書体についてはどうだろうか。
「マンガ家は写植の書体表を基本的に持ってはいないので、編集者が自分の感覚で選んでいました。編集者によって、チャレンジングにいろいろ選ぶ人もいましたね。例えばちば拓の『キックオフ』のようなラブコメ作品の場合、新しい物好きの編集者が、変わったフォントを使ってみたりもしていたんです」
『ジャンプ』の常駐デザイナーたちの仕事
堀内の話を通して、『週刊少年ジャンプ』の吹き出しが活版から写植へと移り変わる時代について聞くなかで、もうひとつ興味深い話が出てきた。それは『週刊少年ジャンプ』作品における毎号の表紙デザインや作品のタイトルロゴ、その他目次やプレゼントページなどを手がけていた社内デザイナーの存在だ。堀内は次のように語る。
「当時は古川正俊という人がチーフデザイナーで、彼は『ジャンプ』の海賊マークを考案したことでも有名な方です。さらに彼に続いて勝亦一己、田熊樹美といったデザイナーが加わり、編集部にはつねに2、3人の常駐デザイナーがいました。コミックスの場合は外部のデザイナーを立てることもあるのですが、雑誌の『ジャンプ』は基本的に社内デザイナーがてがけていました。僕も、会社に入ってまず最初にやったのが、スポーツ新聞の見出しや、映画のタイトル、広告などで『いい字だな』って思ったものを全部切り取って、自分のスクラップブックに貼って収集することでした。それを参考に、新連載や読み切りのタイトルを『この雰囲気で』とデザイナーに頼み、タイトルロゴをつくったりするんです」。
堀内の当時の証言をもとに、当時編集部で活躍した社内デザイナー、古川正俊、勝亦一己、田熊樹美の3人に連絡をとり、話を聞くことができた。
まずは『週刊少年ジャンプ』のロゴや海賊マークをデザインしたことでも知られ、『ジャンプ』創刊当初からデザイナーとして携わってきた古川について紹介したい。古川は1940年石川県生まれで、高校生までは金沢市で育った。中学時代から絵が好きで、高校時代には横山隆一や加藤芳郎といった風刺マンガに憧れ、マンガ家を志すようになり、卒業後に上京。東宝宝塚劇場の美術スタッフとして働きながら、挿絵画家やちばてつやのアシスタントなどを経て、60年代前半には講談社の『なかよし』や『少女』などのアートディレクションに携わった。その後、『少女』のアートディレクターになったものの『少女』の休刊にともない集英社へ。『りぼん』のアートディレクションを手がけるようになった。
その後、古川は集英社が初のマンガ週刊誌として刊行することになった『ジャンプ』の刊行に携わることになる。初代編集長の長野規のもとで、実験的な雑誌のデザインを思案した古川。現在にも通じる『週刊少年ジャンプ』の表紙や背表紙のデザインも、古川がつくった基礎によるところが大きいという。
「いまはなくなってしまったけど、長く『ジャンプ』のロゴには『星』がついていましたよね。これは『みんなが欲し(ホシ)がる』というゲン担ぎを込めたものなんです。少年誌ってそもそもの発想が子供っぽいんですよね(笑)。背表紙も雑誌を厚く見せるために字を平体にして幅広く見せたり。あと、いまの『ジャンプ』にも受け継がれているけど、すべての収録マンガのタイトルを表紙に入れるというのも、当時の担当だった中野祐介(後に編集長)の方針でした。表紙のデザインはよく映画のポスターなんかを参考にしていましたね」。
『ハレンチ学園』『男一匹ガキ大将』『嵐三匹』『ど根性ガエル』『荒野の少年イサム』『アストロ球団』『マジンガーZ』『ドーベルマン刑事』……。『ジャンプ』の黎明期から中興期にかけての、誰もが知る作品である。同時期に仕事をしていたデザイナーによると『マジンガーZ』などは古川のデザインだったというが、本人に尋ねると「よくおぼえていない」そうだ。この時期は、編集者が版下屋に直接依頼する場合と、デザイナーに依頼するケースが混在しており、それぞれのロゴを誰がデザインしたのかの特定も困難となっている。ただ、クレジットがされていなくとも、そのインパクトはいまも変わらず、当時少年だった人々の心に残り続けているのでないだろうか。
誰もが知る作品タイトルロゴに秘められたクリエイション
やがて、古川が女性誌へと仕事の場を移していくなか、『ジャンプ』のデザインの中心を担うようになっていったのが勝亦一己だった。1950年生まれの勝亦は、『週刊少年ジャンプ』の創刊間もないころから2014年までデザインを手がけてきた、まさに『ジャンプ』デザインの生き字引とも言える存在だ。勝亦は当時のことを次のように語る。
「あの頃はとにかく、朝から夜までずっと仕事をしていましたし、それが普通になっていましてね、毎日のことですから。田熊さんと交代でしたが、自分にきた仕事は人にやらせるのも嫌だったし、忙しくても自分でやってしまう。写植からコンピューターになっても、結局は印刷所から色校が出てきたらチェックしなければいけないし、文字の直しもとても多い。いま考えるとよくできたと思います」。
そんな勝亦の仕事においても注目したいのは、やはり作品のタイトルロゴデザインだろう。デザインを担当する週は、表紙デザインのみならず、その号で連載を始めたり読み切りとして掲載される作品のタイトルロゴも常駐デザイナーがつくっていたという。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『北斗の拳』『聖闘士星矢』『Dr.スランプ』『キン肉マン』『ONE
PIECE』『BLEACH』『NARUTRO-ナルト-』といった有名作品のタイトルロゴは、すべて勝亦が手がけたものだ。
「ネームからイメージを膨らませてタイトルロゴにしていくことが多かったですね。フィーリングというか。例えば『キン肉マン』だったら、筋肉が丸まった感じで、丸い書体にしたりとか。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』はタイトルが長いので『派出所』だけを大きくしたり、文字を潰しても様になる勘亭流の書体を使ったり、といった工夫がありましたね」。
「『ONE
PIECE』の場合は尾田(栄一郎)先生が大まかなラフを描いてくれたし、『BLEACH』も書体等は僕が整えましたが、イメージは久保(帯人)先生が提示してくれたものです。このように、具体的なイメージを作家さんが新連載時に提案してくれることも多かったです」。
なお、一部の単行本や文庫版のデザインなどにも勝亦は携わっていた。もはや誰もが知る海図を後ろに敷いたあの象徴的な『ONE
PIECE』の単行本表紙デザインも、初期は勝亦が手がけていたそうだ。
勝亦とともに『ジャンプ』のデザインを支えていたのが1952年生まれの田熊樹美だ。1980年ごろに『ジャンプ』のデザインに関わるようになったという田熊。『幽☆遊☆白書』『BASTARD!! ―暗黒の破壊神-』『とっても!ラッキーマン』『遊☆戯☆王』『HUNTER
× HUNTER』といった有名作品のタイトルロゴは、田熊の手によるものだ。当時のロゴデザインについて、田熊は次のように話してくれた。
「色々な作品のタイトルロゴをデザインしましたけど『幽☆遊☆白書』はとくに思い入れがありますね。角が丸くてぽってりした感じの書体は子供に受けるんではないかと、最初に『幽☆遊☆白書』で試したことが始まりですが、その書体を『とっても!ラッキーマン』でも使ってみています。やはり、デザイナーによっての味が出ますよね。勝亦さんの場合は、書体を大きく崩すんです。『北斗の拳』みたいに斜めに動きをつけてみたり『聖闘士星矢』みたいに下から見上げるようなパースをつけてみたり。とはいえ、そんなに試行錯誤したり、デザインを考え抜いたりする時間はないんですよね。『ジャンプ』のマンガのタイトルロゴの制作期間って、本当にひと晩くらいなんですよ。翌日にはもう入稿しなければいけない状況がざらにあって、週刊連載なので、依頼が来たらすぐにつくっていかないと、どんどん溜まっていってしまうんです」。
国内のみならず、世界的にも広く知られている『ジャンプ』連載の作品群だが、それぞれの作品のアイコンとして誰もがイメージするロゴデザインが、わずかな時間を縫ってつくられていたことに、驚きを禁じ得ない人も多いのではないだろうか。
活版と写植、デザインへの影響
ここまでは、とくにデザインについての話を聞いてきたが、活版から写植を経て、デジタルへと印刷形式が変化していったことが、デザインにもたらした影響はあったのだろうか。
1975年の時点ですでにほとんどが活版から写植へと移り変わっていったという堀内の証言があったが、勝亦からも、表紙を含めた『ジャンプ』の表紙の文字もほとんど写植で、活版は一部の読者プレゼントページなどに残っているのみだったという証言を聞くことができた。
ただ、このような活版がわずかに残っているという状況は、その後も続いたようだ。1980年刊行の『週刊少年ジャンプ』を確認しつつ、田熊はこの頃に至っても活版と写植が混在していることを指摘してくれた。
「マンガのなかの吹出し等の文字は写植、柱の文字もみんな写植ですが、アオリ文は活字ですね」。
いまや聞くことも少なくなった版下をつくる版下屋の仕事も、写植においては重要だったと田熊は語る。
「当時は、レイアウト用紙の上に文字を書き、色の指定をし、それをもとに版下屋さんが罫を起こして、それを印刷外社の写植部に持っていくという流れでした。手書きで文字を描いてフォントを指定すれば、版下屋さんがデザインをしてくれたんです」。
活版と写植の違いが印刷した誌面を見ればわかる。これも、当時を知る編集者やデザイナーだからこそ持っている目といえるだろう。印刷のクリアさと書体によって見分けられるというが、現在の我々からするとその差異を見つけるのは困難を極める。このように、80年代にはほとんどが写植に移り変わったと思われる商業印刷の世界だが、『ジャンプ』では当時もかろうじて活版が使われていたことは知られざる歴史といえるだろう。
コンピューターを介した製版が一般的になり、製版の世界で重要な役割を担っていた版下屋は次第に姿を消していった。当時のことを勝亦は次のように振り返る。
「コンピューターの使い方にも苦労しましたが、版下屋さんがいなくなったことで、フォントも色指定も全部自分で決めなければいけなくなった。だから、やることが増えて大変な部分もあったんですよ。でも、総合的に仕事としては楽になりましたよね。線などを含めて自分で位置をすべて決めることができるので、レイアウトそのものは早くなった。けれど、版下屋さんのあの技術は本当に貴重なものだったと思います」。
『週刊少年ジャンプ』黎明期より携わった編集者とデザイナーの話から、マンガ雑誌のデザインと文字の歴史の一端を紐解いた本稿。作品の内容ではなく、改めてマンガのマテリアルとしての側面に着目したとき、そこには知られざる先人たちの創意工夫があったことがわかる。デジタル端末でマンガをデータとして持ち歩けるようになったが、この文化の礎をつくりあげたのは、かつてのマンガのつくり手たちによる、手の仕事だ。本記事が、その仕事の価値を改めて見直すきっかけになれば幸いだ。