父の復讐に乗じて鎌倉殿暗殺も計画していた : 曽我兄弟の仇討ち
「曽我兄弟の仇(あだ)討ち」は、赤穂浪士の討ち入りと並び歌舞伎や文楽で幅広い人気を集めた。だが戦後はGHQ占領下、仇討ちは好ましくないと判断され、次第に話題にのぼることが減った。また、事件を記録した『曽我物語』が信頼性に乏しい軍記物語といわれたため、歴史学のジャンルで取り上げられる機会も少なく、『鎌倉殿の13人』で知ったという人もいるだろう。
「曽我兄弟の仇討ち」とは、父を殺された2人の兄弟が、仇(かたき)をとる話だ。架空の物語ではない。建久4(1193)年5月28日に起きた史実である。
兄は曽我十郎祐成(そが・じゅうろうすけなり)、弟は五郎時致(ごろうときむね)。曽我は、実の父の死後、母が再嫁した家の姓だった。
この事件が注目されたのは、兄弟が源頼朝の挙兵(治承4 / 1180)直後に源氏方に敗れた伊東祐親(いとう・すけちか)の孫であり、かつ兄弟の父を殺害したのが、後の頼朝の側近・工藤祐経(くどう・すけつね)だったからである。頼朝の周辺で起きた重大事件だったため、長く人々の記憶に残ったのである。
伊東祐親は、『鎌倉殿の13人』では流人時代の頼朝を監視する役を担っていた伊東国(現在の静岡県伊東市)の豪族である。ドラマでは娘の八重が頼朝と恋仲に陥り子どもを産んだことに激怒、その子を殺害した。
一方、工藤祐経は伊藤祐親の甥(おい)に当たり、祐親の娘を娶(めと)っていたが、京都に上洛中に祐親に所領を奪われ、かつ妻を他家に再嫁させられてしまう。これを怨んだ祐経は虎視眈々と復讐の機会を狙い、安元2(1176)年、配下の者に命じて狩りの帰途にあった祐親一行に矢を放った。
矢は祐親ではなく、その息子・河津祐泰(かわづ・すけやす)に命中して絶命。その祐泰の遺児が、曽我兄弟。兄が5歳、弟が3歳の時の出来事だった。
時は流れ、工藤祐経は京都での人脈を買われ、頼朝に重用される。
一方、兄弟は北条時政に接近し、時政は弟・五郎が元服する際の烏帽子親(えぼしは成人男性が礼装で身に着ける。元服で烏帽子をかぶせる人とは義理の親子の関係を結ぶ)となった。五郎時致の「時」は北条から賜ったもので、五郎は「小四郎義時」の次であることを意味する(『曽我物語の史実と虚像』坂井孝一 / 吉川弘文館)。
時政は伊東祐親の娘との間に政子と義時をもうけている。つまり、曽我兄弟にとって、時政は叔父、政子と義時はいとこに当たる。
兄弟は建久4年5月、鎌倉幕府の「巻狩り」に合わせて仇の工藤を討つ決心をする。「富士野の巻狩り」と呼ばれる一大イベントだった。
巻狩りとは、「猪・鹿などの獣を追って捕殺する形態の狩猟である。実戦と同様に馬上から獲物を射殺する騎射が行われたので、武士にとって軍事訓練という性格があった」(『源頼朝』元木泰雄 / 中公新書)
同時に、頼朝の嫡男・頼家に獲物を仕留めさせ、その武功をもって、2代・鎌倉殿として御家人にお披露目するのが目的だった。準備を時政が担い、巻狩りの指揮官は和田義盛と畠山重忠だったと、『曽我物語』は記している。