甲乙つけがたい。長谷川新 評「私はなぜ古谷渉を選んだのか」
展覧会「キュレーションを公平(フェア)に拡張する
vol.1『私はなぜ古谷渉を選んだのか』」についてのレビューの依頼を受けた。障害者の表現に対して行使される様々なキュレーションを精査し、より公平なキュレーションを模索する試みである(*1)。
しかしこの展覧会は、キュレーターの保坂健二朗氏自身によってかなりの程度「反省=先回り」されており、あまり書けることがない。書くべきことはあるが、それはキュレーターが書くべきだろうと思う。タイトルにある通り、「私はなぜ古谷渉という作家を選び、展覧会を行ったのか」ということが十全に示されれば、「キュレーションが公平に拡張しうる」──そうした希望が込められた展覧会である。
だから、「私はなぜ古谷渉を選んだのか」を結局は語らずにキュレーターの自問自答が続く本展は、際限のない思考を身体的に受け止めることになり、筆者にとっては負荷の重いものだった。キュレーターが展示で開陳する「悩み」は、ある作品を「展示しない」ことで「作家像」をつくり上げていくことの是非を問うといった具体的で現実的なものだから──実際に「展示しなかった」作品たちが「展示されている」──そこに切実さがあることは疑わない。
また、「キュレーションの技術」の開示と批判的検討の継続こそが肝要であるという企画趣旨にも全面的に賛同するのだが、技術論を前景化してるわりに展示はカラッとしていない。古谷渉の作品について語ることでこの「キュレーション」を振り切ることも考えたが、キュレーションの批判に話を絞ろうと思う。
ただ、けっこうきついのである。鑑賞後に監視スタッフから手渡される「キュレーターからの手紙」(!)に「もちろん批判もウェルカムです」と書かれていて何様だと思った。忌憚のないご意見を──とはわけがちがう。展示を観てもらったくらいで親密になれただなんて思わないでほしい。この(安心して話ができるような場所づくりのためではない)「親密さ」はキュレーション全体にも通底していて、それを批判する必要があると思い執筆の依頼を受けたのだが、まさにいま、こう書いていることが「ウェルカム」なんだろうと思うと、本当に出口なしやん、とやるせなくなる。なので違うところから書いてみる。
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リニューアル間近の横浜美術館は、オンライン上で収蔵作品やその解説文を読めるように整備が進んでいる。コレクションへのアクセスポイントをオンラインにおいてもちゃんと確保することは、目立たなくとも本当に大切だと思うし、素晴らしい取り組みだと思う。そのなかのひとつ、ポール・ジャクレーの木版画《オウム貝、ヤップ島》の解説文を、検討のために全文引用する(執筆は南島興氏)(*2)。
ハイビスカスの髪飾りをした青年がオウム貝に口をつけています。その背景には青い海と青い空、風にたなびく桃色の雲が見えます。3歳から日本で暮らした、フランス生まれのジャクレー。彼は病弱だったため1929年から1937年頃までの冬を、当時、日本の委任統治下にあったミクロネシアの島々で過ごしました。その際に出会った島民を描いたのがこの作品です。日本で習得した浮世絵の技法で描かれており、迷いのない線と透明感のある色彩が印象的に映ります。これはジャクレー作品の技術的な特徴であり、また作者と島民との間にある親密さを表すのにも功を奏していると言えるでしょう。
ジャクレーが「あたたかい眼差し」で島民たちを見ていたことは再三言及されてきたが(*3)、ここではさらに一歩踏み込んで「作者と島民の間にある親密さ」が前提となっている。
いわゆる「お雇い外国人」の息子として3歳で来日したジャクレーが、病気療養を理由として日本の委任統治下にあった島々にたびたび滞在していたことは解説文にある通りだ(*4)。また、この作品の制作年は1958年であり、ジャクレーがこの版画を手掛けたのはヤップ島滞在のずっとあと、作者の晩年であることがわかる(ちなみに軽井沢で制作している)。
大日本帝国に大学講師の息子として来日したフランス人が、母親の経済的支援のもとで委任統治下の土地を訪れ、晩年になって島民たちを版画にしたという事実を前提にしたうえで、「作者と島民との間にある親密さ」と解説できてしまうことはそれなりに歪んでいる。
むしろこの版画においては、画面右下に彫師と摺師の名が日本語で印字されていることのほうが、ジャクレーの仕事仲間たちへの「リスペクト」が出ているように思われる(版画のタイトルはフランス語表記である)。
ジャクレーの版画の主要なコレクターはマッカーサーをはじめとする米軍関係者たちだった。彼の作品は、彼がミクロネシアの島民たちに親愛の情を持っていたのだとしても(そして実際に一部の島民と友好的な関係を築いていたのだとしても)、最初から最後まで帝国主義的ネットワークに強く規定されている。
そうした社会背景を強調することは作家にとってフェアじゃないだろうか。あるいは、限られた文字数のなかで「ライト層」に向けてわかりやすく伝えるにはこうした語り口が有効なのだという問題意識があるのかもしれない。ここで指摘したいのは次の点である。
社会構造における不均衡のなかで、個別の二者間の「純粋な関係」をシェルターとするような態度は、フェミニズム批評やコロニアリズム批評に対しての同調とカウンター両方の性質を持っている。言うなれば、現状に過剰に適応した話法であり、そこには奇妙な「反省=先回り」がある。
自分に閉じこもるのではなく、「君と僕のセカイ」に閉じこもる──この態度は歴史/社会認識のカウンターとして作用すると、当事者性のハッキングとして俄然不穏になってくる。君と僕のあいだの「対等で純粋な関係」は、ほとんどの場合、願望の投影、フィクションでしかないからだ。
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「私はなぜ古谷渉を選んだのか」展に話を戻す。言いたいのは、そのキュレーションは本当の意味での内省の反映かということである。それはたんなる「先回り」ではないだろうか。「#やってみた」ではないだろうか。技術や手続きの開示ではなく隠蔽になってないだろうか。
キュレーターが「駄作を見せないキュレーションに違和感があった」と告白するときに、あの展示方法やテキストにおけるアプローチの「軽さ」は、実際にそのように振る舞うことができ、かつ、駄作と名作を峻別しうるキュレーターの権力を不問にしているのではないだろうか(*5)。ある表現を「駄作」とするキュレーターの判断を鑑賞者が批判的に問えるかたちになっていただろうか(「手紙」が提示されるのが帰り際なのは、純粋に展示を楽しんでもらう時間の確保だというのだろうか)。
言い換える。この展示はキュレーターが「駄作」だと思った表現を、別の鑑賞者が「傑作だ」と思いうる契機になっているだろうか。作者の制作の全体をありのままに伝えるよりも、「駄作」探しを誘発することになっていないだろうか。傑作かどうかはわからないが少なくとも自分にはこの作品はこう見える──というような「出口」が展覧会には無数にあってほしい。この展示に、タイトルが反転する可能性はあっただろうか。「古谷渉はなぜ私を選んだのか」。
制度をときほぐしたり、制度が発生していく推移をトレースするのに、「私」でも「システム」でもなく「私とあなた」の再構築を始点に置くという試みはありうると思う。「社会」や「制度」はデカすぎるし複雑すぎる。場合によっては、一時的に「二者間」に閉じこもることで、内省を深め、自らの傷を癒すことも必要だろう。だがここに、「反省をしながらやっていくほかない」と「怒られずに、安心してクリティカルなことを言ったり表現したい」の両立が欲望されすぎると、「フィクショナルな二者関係に引き込む技術」が積み上がってしまう。キュレーターが語りかける「話法」自体を、今一度検討したいと考える次第である。
*1──本展のディレクターのひとりが過去に語っていたことを踏まえれば、本展は、意識的にキュレーターのキュレーションに絞って議論をしてみようという提案であると思われる(リンク先「キュレーター的な観点から補助線を引くならば」以下参照。長いので一部のみ引用するが重要な指摘であると思うので全文にあたられたい)。本展は、そもそも文化庁とHAPS主催の文化事業「公立美術館における障害者等による文化芸術活動を促進させるためのコア人材のコミュニティ形成を軸とした基盤づくり事業」の一環であるから、ほかにも(キュレーターによる展示実践以外にも)様々な職能を持つ人々の知見の共有や技術の批判検討がなされているのであろう。
「障害者以外の全員がキュレーションの技術体系を駆使している。出発点にある未分化な状態から、キュレーション技術を駆使することで作家と作品の概念が発生している。あるいはひとつの芸術ジャンルが生成している。事前に作家や作品やアウトサイダーアートというジャンルが成立しているわけではない。」
http://haps-kyoto.com/haps-press/bcc_talk/tktkmt_talk/3/
*2── https://inventory.yokohama.art.museum/8181
*3── 美術史家で元横浜美術館学芸員の猿渡紀代子は、1936年の『静岡民友新聞』にけるジャクレーのインタビュー連載記事「芸術家の眼に映ったハダカの国
南洋を描く
版画家ジャクレー氏をめぐって語る会」を引きながら、「ジャクレーは、無名の人々を個々の人間存在として描き、上からの目線や対象との距離感を感じさせない」と述べている(『ポール・ジャクレー全版画集』阿部出版、2020年、p.12)。いっぽう同じ原稿内で、「子供時代から『人間のタイプ』に関心を抱いていたジャクレーは、文化人類学的な観点から、滅び行く種族の面影と風俗を画面に残そうと」し、「ジャクレーの趣味となった蝶コレクションの標本データにも似た学術的な視点が透けて見える」とも論じている(同、pp.9-10)。
*4──ただし、ジャクレーの南洋諸島渡航は1929年から1932年の4年間となっている(『ポール・ジャクレー全版画集』巻末年表参照)。期間は順に、3月から6月、2月から8月、3月から5月、3月から8月となっており、高温多湿の南洋への渡航を鑑みると「病気療養」は表向きの理由ではないかと、渡航の実証研究を行った樋口和佳子や前述の猿渡は推察している。
*5──キュレーターの手紙にはこうある(展示の構成上、展示を見てない状態でこれを読むのと、見た後にこれを読むのとで意味合いが変わってくることは承知しているが引用する)。
「個展としては異例のスタイルだと言えます。でも実は私は、これまでも、いろんな作家の個展を手掛ける際に、駄作や失敗作だと思えるものも入れたい、入れるべきだと思ってきました。むしろそうした作品にこそ、作家の人間性を感じられると思える時があるからです。あるいは、作家の全体像というものは、そうした作品を含むはずだと考えるからです。しかし、駄作を駄作と銘打って紹介することは、様々な事情から許されないことがほとんどでした。そんなこれまでできなかったことを今回実施したわけですが、ここで紹介されている作家は障害のある人だということを考えると、これは非倫理的なふるまいとなってしまうのでしょうか。けれども、プロではない作家を紹介する展覧会という条件では、作品を選び抜くのではなく、むしろ『事実をありのままに見せる』という方法論もありえるのではないかとも思ったのでした。ただ、古谷は、いつかは作品の制作で生計を立てたい、つまりプロになりたいとも言っているのですが......。もっとも、『これは駄作です』とはどこにも書いていません。解説がない作品のうちのいくつかがそれに該当するのかもしれませんし、作品解説があったとしても、読みようによっては、『(通常の美的判断の基準に照らし合わせれば)これは失敗作だ』と言っているに等しいものがあるかもしれません。そのあたりのご判断は、皆さんにお任せしたいと思います。」