「多様な価値観」は絵空事? 現代思想が犯している本質的な誤ち
現代思想の行きづまりを打破し、根本的に刷新する――。哲学者・竹田青嗣氏が、哲学のまったく「新しい入門書」であるとともに、「新しい哲学」の扉を開くための書を目指して書いたのが、現代新書の新刊『新・哲学入門』です。同書から、相対主義を批判し、現代哲学の挫折の本質を看破する第1章の一部をお届けします。
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*現代思想における相対主義は、哲学の「普遍洞察」の考えを、独断論あるいは形而上学として批判してきた。理由は一つで、相対主義自身が、認識を、「本体」の認識かその不可能のいずれかしかないと考えるためだ。しかしこれは誤りである。
人間だけが言語ゲームによって世界を描く。その意味は、言語は世界を写す「鏡」ではありえず、ただ世界の「絵」を描くことができるだけだ、ということである。独断論と相対主義は、そもそもこの事態への根本的な無理解から現われる。
*たとえば、現代の相対主義はこう主張する。哲学は普遍認識を求めるゆえに、すなわち絶対的認識を求めるゆえに誤っているだけでなく、危険ですらある。むしろ、世界観と価値観の多様性こそが存在すべきなのだと。だがこれほど顚倒
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てんとう
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した考えはない。 われわれは、現代社会において多様な価値観を必須のものと考える。それは正しい。しかしそもそも価値の多様性は、絶対専制社会においては許容されえないし、それゆえ存在しえない。むしろ、こう考えなくてはならない。「自由な社会」だけが多様な価値観を可能とする。そして、いかなる社会が多様な価値観を確保する社会となるかに答えるには、必ず普遍的な社会「原理」を必要とすると。多様な価値観があるべきだという相対主義の主張は、単なる思想上の希望、絵空事にすぎないのだ。
*現代哲学は哲学の本質的方法を継承できず、総じて相対主義哲学の罠に陥った。そのことで、現代社会について、本質的な考察をほとんど生み出すすことができなかった。ポストモダン思想がそれを象徴する。
第一に、ポストモダン思想は、現代社会を批判するのに、近代以後の「市民社会」それ自身を矛盾に満ちたもの、ある場合には人間の自由を抑圧、排除する支配のシステムとして描いた。これが最大の誤りであり、この前提によってポストモダン思想は、ただ現状の批判のみに終始して、矛盾の克服の方途をまったく示すことができなかった。むしろ哲学の普遍洞察が示すのは以下である。近代哲学者の構想による「近代市民社会」は、人々が生き方の自由を求めるかぎり、つまり価値の多様性を望むかぎり唯一無二の社会原理である(他にはまだどこにも見出せない)。だが近代社会から現代社会への進み行きはこの根本構想から大きく逸脱し、さまざまな矛盾を生み出した。これを批判するのに、ポストモダン思想は相対主義の方法に依拠した。その批判の要諦
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ようてい
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をひとことで言える。一切の既成の制度は正当性の根拠がなく、誤っており、変更されねばならないと。だが相対主義の方法からは、どのように変えるべきかの普遍的な考えは原理的に現われえない。 本質的な批判はこうでなければならなかった。近代市民社会は、人々が自由な社会を望むかぎり唯一の可能性の原理である。「自由な市民国家」は、人々の一般意志による統治をその正当性の根拠とするが、近代国家の現実は、資本主義が特定階層の独占的支配のツールとなり、その民主主義的統治の正当性を浸食し、破壊している。それゆえ「自由な市民国家」の正当性の概念にもとづいて現在の状態が批判され、克服されねばならない、と。
現代の社会批判の本質的根拠は、自由な市民主義としての民主主義の理念にもとづかねばならず、それ以外の批判は、正当性も現実的可能性ももつことができないのである。
こうして現代哲学は、はじめに手にした決定的な誤謬によって、社会批判の唯一の可能性である哲学の方法自体を投げ捨ててしまったのである。