千葉・多古の「並木城」 お城イベントで新発見 大改修示す地形か
お城開きは海・山開きと同じように、山城を楽しむシーズンの始まりを告げるイベントで、昨年に続く2度目の開催。中世の山城は、盛土で作られた防壁である土塁や、水のない空堀などが残っているだけで、夏は下草が生い茂り、こうした遺構の存在が分かりづらい。秋以降が〝見ごろ〟になるというわけだ。
室町時代に合戦の舞台にもなったという並木城だが、遺構の保存状態は良好だ。10月29日のイベントでは、県内外から集まったお城ファンが精力的に整備を進めた。
数時間後、それまでは確認できなかった土塁と、人工的に平らにされたとみられる平場が姿を現した。空堀に隣接しているが、不自然なのは平場から見て土塁が堀との間ではなく、逆側にあったことだ。堀の縁を土塁で高くして、敵兵が堀を登れないようにするのが当時の常道だ。さらに平場は低い位置にあり、防御の役割を果たせない配置といえる。
「わかったかも」。少したって、イベントを主催した多古城郭保存活用会のアドバイザー、山城ガールむつみ(本名・宇野睦)さんが興奮した様子でつぶやいた。歴史講座などの活動を展開するむつみさんは参加者のリーダー的存在として、ともに整備に当たっていた。
むつみさんがたどりついた仮説は、低い平場に隣接する堀は城が建てられた当初は存在せず、後からつくられたというものだ。この堀は並木城の他の堀と比べて幅が大きくて深いが、戦国時代にかけて発達した集団戦闘に対応するためだと考えられる。また、この城には曲輪(くるわ)への出入口である虎口(こぐち)が2カ所あるが〝謎〟とされてきたが、改修で虎口が移動したならつじつまが合う。
城主だった千葉氏が並木城を改修したとすれば、防御力の底上げを迫られた理由は何か。正木氏の下総侵攻(1560年)や、千葉氏を傘下に収めた北条氏に対する豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)などが考えられるという。むつみさんは、「見えないものが見えてくると、いろいろと想像する選択肢が増えて楽しい」と語った。
宮城県多賀城市から参加した並木貴憲さん(51)は、「千葉にルーツがあるのでいずれ行ってみたいと思っていた。ご先祖様が近くにいるようで気分がいい」と笑顔。東京都から参加した山崎茂久さん(66)は、「整備は大変だったがもっとやりたかった。全国の城に足を運んできたが、誰かが整備してくれているのだと実感した」と話していた。
主催者として最後に挨拶した活用会の小室裕一事務局長は、「新発見があり、最高の歴史ロマンを提供できた」と強調した。(高橋寛次)