碇本 学 あだち充の半世紀と現在地
(『中央公論』2023年8月号より抜粋)
『MIX』は、2012年から月刊漫画誌『ゲッサン』で連載が始まったあだち充の野球漫画である。23年現在も連載中であり、コミックスは第20巻まで刊行されている。1970年、三島由紀夫が自決してすぐの頃に19歳で漫画家としてデビューしたあだち充は、2020年に画業50周年を迎えた。現在72歳だが、いまだ現役の漫画家だ。
「あだち充の代表的な野球漫画は何か?」と問えば、世代ごとにその作品名は違ってくる。1980年代には野球漫画の金字塔となっている『タッチ』(81~86年連載)、90年代にはJリーグ発足によるサッカー人気に抵抗して、野球の面白さを描くことにこだわった『H2』(92~99年)、2000年代には『週刊少年サンデー』での最後の連載となっている『クロスゲーム』(05~10年)、10年代には活動の場を月刊漫画誌に移して始まった『MIX』(12年~現在)と、それぞれの年代ごとに野球漫画の代表作がある。
あだち充は高校2年生(16歳)の時、手塚治虫が創刊した漫画雑誌『COM』の新人賞に「虫と少年」という作品を投稿して佳作2位に選ばれ、以降も新人投稿ページに幾度か掲載されるほどの腕前だった。
元々は3学年上の兄のあだち勉(つとむ)が高校生で貸本漫画家としてデビューし、中学生の充は兄の手伝いをして小遣いをもらっていた。また、当時の貸本漫画には読者投稿コーナーがあり、あだち兄弟は常連として掲載されていたことで貸本漫画業界では「群馬の天才兄弟」として知られていた。
高校卒業後に東京で広告会社のデザイナーをしていた兄の勉は、高校2年生の頃には漫画家になりたいと決めていた弟のために、永島慎二(代表作『漫画家残酷物語』)のアシスタントに採用してもらう話をつけ、漫画家になるのを反対していた両親を説得する。
だが、その翌年、充が高3の時に永島が突然渡米してしまい、慌てた充は『COM』編集部から石井いさみ(代表作『750(ナナハン)ライダー』)を紹介してもらい、アシスタントとして上京した。石井が充を小学館に連れていった際に、『デラックス少年サンデー』編集長から「これをやりなさい」と原作を渡され、アシスタントをしながら半年ほどかけて描いた読み切り短編「消えた爆音」(原作:北沢力(りき))が商業誌デビュー作となった。
また、この時期にあだち充は石井とも懇意にしていた、赤塚不二夫番であった編集者の武居俊樹と出会う。武居は充の絵を見た瞬間、「こいつが『サンデー』のエースになる!」と思うほど彼のことを高く買い、生活の面倒まで見た。武居はあだち充の漫画家人生を大きく左右する存在となっていった。
あだち充に漫画の描き方を最初に教え、その背中を押したのは間違いなく兄の勉だった。弟のために両親を説得したあとには、仕事をやめて自らも漫画家としての活動を再開した。
そして『週刊少年サンデー』で短期連載された「タマガワ君」を見た赤塚不二夫から絵の上手さを認められ、武居を介してフジオプロに参加し作画の下絵チーフを任された。高井研一郎(代表作『総務部総務課山口六平太』)、古谷三敏(代表作『BARレモン・ハート』)、初期からのアシスタントの北見けんいち(代表作『釣りバカ日誌』)、そしてあだち勉は「赤塚門下四天王」と称された。
勉は「飲む・打つ・買う」の三拍子そろった遊び人でもあり、その頃のことは彼の弟子だったありま猛(たけし)による『あだち勉物語~あだち充を漫画家にした男~』(協力:あだち充、既刊4巻、「サンデーうぇぶり」&『週刊少年サンデーS』に連載中)に詳しい。
1980年代に入り、『みゆき』や『タッチ』の大ヒットで充が漫画家として売れっ子になっていくと、勉は弟のマネージャー兼アシスタントを務めるために、フジオプロを辞めることにした。弟子として彼を可愛がっていた赤塚不二夫が、もし辞めるのであれば再度漫画家として一本立ちしてほしいと願うほどの才能を勉は持っていたが、2004年に56歳で亡くなるまで裏方として弟のサポートをしていくことを選んだ。