<森と海からの手紙>難病の妻を描き切る 人生と向き合う希代の鉛筆画家
そんな思いに駆られるようになったのは、91歳になった母親の介護を始めてからだ。近所の団地で1人暮らしをしていたが、年明けから床に伏す時間が長くなった。認知症の進行に、圧迫骨折の痛みが加わってきたため、我が家で同居することにした。
一緒に風呂に入り、しわだらけの肢体を洗いながら、その胎内でいのちを授かったことに思いをはせる。さっそうとしていた頃の母との乖離(かいり)にふがいなさを感じ、思わず声を荒らげることもあった。
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そんな折、旧知の画家、木下晋(すすむ)さん(75)と久しぶりに電話で話をしていて、彼の言葉に膝を打った。
「介護とは、病気や老いでむき出しになっていく相手と向き合いながら、己の心のうちを見詰める行為なんです」
身体機能を喪失していく難病の「パーキンソン病」を患う妻の君子さん(74)を介護し、闘病の軌跡を濃淡22種類の鉛筆で描き続ける鉛筆画家である。
相模原市の公団にある木下家を訪ねたのは、桜の花びらが舞い散る4月5日だった。居間のベッドに君子さんが横たわり、木下さんは傍らで寝起きして介護と創作を続ける。50代後半に発症し、現在「要介護5」。風呂や食事、下の世話が、木下さんの日常だ。
「身体機能がもぎ取られていく様を描くことに葛藤もありましたが、2人で作品という子供を作る生殖行為のようなものだと思います」とは、木下さんの思いである。
片や、妻の胸中は? かつて、彼女はインタビューにこんな思いを語った。
<他人に見られたくない姿をむき出しにされるようで、嫌だと思うことはありますよ。けど私は木下の絵が好き。彼が描く黒には奥深さがあり、彼自身の内面の奥深さも感じます>
「今も同じ思いですか」。発語に難儀するようになった君子さんに問うと、小さくコクリとうなずいた。
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木下さんは敗戦の2年後に、富山のとび職の3人兄弟の次男に生まれた。3歳で家が火災の火元となり、近所に類焼。夜逃げ同然に山麓(さんろく)にある竹林の番小屋に身を寄せた。父は日雇い仕事に出たが、赤貧の中で、1歳の弟が餓死した。
「食い物といえば、米はほとんどない大根飯やタケノコ飯。釜にこびりついた米粒をこそいで口にしたが、弟に分ける余裕はなかった」。亡きがらを抱え、野焼きに向かう父の背中を記憶する。母親が放浪を繰り返すようになったのは、それからだ。
「子連れの方が施しをもらえるのか、6歳上の兄を連れての家出と放浪でした。母のぬくもりを知らずに育った僕には、母は憎しみの対象でしかなかった」
木下さんの美術の才を見いだして芸術の世界の扉を開けてくれたのは、中学の美術教師だ。縁がつながって多くの著名な画家の知己も得た。高2の夏に制作したクレヨン画は、東京都美術館の自由美術協会展で、史上最年少で入選した。
中学卒業前、父親が仕事先で事故死した。17歳で高校を中退。22歳の時、反対を押し切って君子さんと駆け落ち。新潟や埼玉を転々としながら描き続け、妻が働いて生活を支えた。
転機は34歳の春に訪れた。油絵を抱えて渡った米ニューヨークで、美術家の荒川修作氏と出会う。絵が評価されず失意の中にいた木下さんが、極貧の少年期や母親への憎しみをぶちまけると、予期せぬ言葉が返ってきた。
「君は、作家として最高の環境に育った。母親の話に耳を傾け、それを絵に織り込むべきだ」。人生観を転換させる助言。帰国後、母と向き合い、模索していた鉛筆画で描き始めた。
「3度の結婚に弟の死や、セックスの話も聞きながら、母の壮絶な人生を白と黒の世界に込めました。忌まわしい存在だった母との壁が、次第に溶けていくようでした」
「最後の瞽女(ごぜ)」と呼ばれた全盲の小林ハルさんからは、新たな発見を得た。
「三味線を手に渡世する旅芸人の波瀾(はらん)万丈の人生は、なぜか彩りに満ち、障子をビリビリと震わすような歌声に、心をわしづかみされたような衝撃を受けました。僕はそれを白黒の鉛筆画に込めようともがきました」
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ハンセン病患者の詩人、ホームレス、市井を生きる名もなき人々……。彼らの人生の陰影を、鉛筆で浮かび上がらせ、「希代の画家」と評されるようになった木下さんは、いとまを告げる私に言った。
「妻が病んで、新たな課題をもらいました。僕はデスマスクまで描くつもりです」【客員編集委員・萩尾信也】