【Japan Data】江戸時代の大名石高ランキング(後編6~10位) : 西日本の外様大名がずらり
石高の6~10位は、西日本の外様大名が占めている。徳川幕府は、政権の中枢に親藩(初代将軍・家康の家族・親戚)と譜代(家康に仕えていた家臣)を登用する半面、外様を政治に参画させなかった。領地も江戸の近くに与えることはなかった。外様は官位も概して低く抑えられ、家格も低かった。
その代わり、石高は多く持たせて恩義を売った。こうしたことによって不満を抑え、懐柔をはかったのである。
1年間の米の生産高を表す単位「石」を、1石=約30万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修 / 宝島社による)としてランキングを作成している。
関ヶ原の戦い(慶長5 /1600年)で徳川家康に与した細川忠興(ただおき)が、九州豊前国(福岡県東部と大分県北西部)に小倉藩を立藩。その後、忠興3男の忠利が家康のひ孫にあたる千代姫を妻とし、徳川との関係を強めた。
1632(寛永9)年、同じ九州の肥後国(熊本)を治めていた大名・加藤氏が改易となり、代わりに忠利が54万石に加増されて入った。現在の熊本市の基礎は加藤時代に築かれたものだ。
細川は地方巧者(じがたこうしゃ / 農政官僚)を登用して産業を振興した。とりわけ阿蘇山の火山灰土壌を利用した甘藷(かんしょ)の生産や干拓を奨励し、豊かな国へと発展させた。
6代藩主・重賢(しげかた)が設立した藩校・時習館も著名で、幕末の学者・横井小楠(よこい・しょうなん)を輩出している(小楠は後に熊本を出て福井藩に出仕)。
熊本藩は5代藩主の宗孝が1747(延享4)年、江戸城に登城した際に旗本の板倉勝該(かつかね)に人違いで殺害され、お家断絶の危機に見舞われたことがある。
板倉勝該は板倉本家当主が自分を排斥しようとしていると知り、当主を狙って凶行に走った。ところが、板倉家の家紋・九曜巴が、細川が使っていた九曜紋と似ていたため、誤って宗孝を斬ってしまったのだ(凶行については別説もあり)。
事件後、細川家は従来の九曜紋から、中央の大円を取り巻く小円を小さくし、大円から離す意匠に改変。大円と小円が離れていることから「離れ九曜」とも、細川独自の紋であることから「細川九曜」とも呼ばれる。
宗孝には跡取りがいなかったが、家臣らが宗孝が切られた直後に宗孝の弟(後の6代・重賢)を養子に立て、翌日になってから宗孝が死去したことを幕府に届け出たことで、なんとか断絶を免れた。18代当主に当たる細川護熙氏は熊本県知事を務め、さらに、1993年に38年ぶりに自民党からの政権交代を実現した連立政権で首相の座にもついた。