鈴木涼美 男性が女性を二分する境界線など器用に行き来すればいい(サガン『悲しみよ こんにちは』)
今回は、フランソワーズ・サガン18歳の時のデビュー作で、世界的なベストセラーとなった『悲しみよ こんにちは』を取り上げます。
明るく間抜けな昼の光の下では輝かずに無骨な姿を晒しておいて、夜になると東京中の何よりも綺麗に輝く東京タワーを見上げるたびに、娼婦のようだな、と思います。映画『赤線地帯』」に出てくる若尾文子、或いは『娼婦ベロニカ』或いはゾラの『ナナ』のように、オンナの身体と手練手管で上り詰めていく美しき娼婦の姿は、常に10代の頃の私の憧憬の的でした。見知らぬ男に触られ、見知らぬ男を悦ばす彼女たちは世間から侮蔑を投げつけられる存在でもありながら、その悪意をも取り込んだ神々しさは浮世の羨望を向けられるものでもあります。伸びるよりも咲くことを選ぶある種の人々の生き様は、自分の若さがいつか必ず喪失するものであるとは信じたくない私には、潔く思えました。彼女たちを目の前にすると、昼の光の下で男と肩を並べて、無骨なまま輝こうとする女性たちはどこか愚鈍で要領が悪いような気がしたのです。
そういった憧れと裏表に、世間から絶対に同情や軽蔑をされず、むしろある種の人々を堂々と見下して、昼間の真ん中で生きる小粋で上品な女たちにも、ちょうど同じだけの羨ましさを感じていました。母が作っていた海外の雑誌や新聞のスクラップブックには、米の警察機関で働くエリート女性たち3人にスポットライトを当てたインタビューがあり、中でも犯罪心理の専門官として部門のトップに上り詰めたのはモデル顔負けの美人で、そういった迫力を目の前にすると娼婦の華やかさなどいかにも安っぽく儚げに思えました。
幼い私の中にあった二つの憧れは、憧れのうちは矛盾せずに心に同居できても、実際には前者は後者でないからこそ前者であり、後者は前者ではあり得ないからこそ後者であるという特性を持っているようで、どちらかを選べばどちらかを捨てなければならないような気がしていました。結局優柔不断な私はそのどちらも潔く手放すことはできずに、雅俗混淆な青春を過ごすことになります。大人になった今、私はそのどちらにもなれなかったけれど、どちらの憧れも消えたことはありません。おそらく、どちらか一方へ歩み寄ることができたとしても、捨ててきた方に後ろ髪引かれる思いは消えなかっただろうし、どっちつかずで時と場合によってどちら風にも装える人生は悪くないような気が、今ではしています。