三菱財閥・岩崎家がめでたアートなひな人形を特別公開:静嘉堂@丸の内で、国宝「曜変天目」も展示
昭和初期、皇族御用達の老舗・丸平(まるへい)大木人形店が3年を費やして制作した「岩﨑家雛人形」。注文主は、明治の政商・岩崎弥太郎のおいで、三菱財閥4代社長の小弥太。その代金2万円は現代の価値で1億円相当ともいわれる。
主役の内裏びなは、男女ともに白くつややかな丸顔が愛らしい童子風で、京都の公家が好んだ御所人形を思わせる。着物やひな道具には精緻な刺しゅうや絵付、彫金の技を用いて、岩崎家が家紋の代わりに用いた「花菱紋」をあしらっており、当時の工芸技術の粋を集めた傑作と呼べる。
このひな人形は1929(昭和4)年、鳥居坂(現在の東京都港区六本木)に完成した岩崎家の新邸でお披露目。明治画壇を先導した日本画家・川端玉章の「墨梅図屏風」を背に、堂々たるひな段が客間を飾った。
小弥太は茶の湯や俳句、日本画もたしなむ文化人で、東洋美術のコレクターとして知られた。徳川将軍家旧蔵の「曜変天目」(国宝)も愛蔵品の一つで、その価値を熟知していたがゆえに、生涯使うことはなかったという。邸宅にしつらえられた一級の調度品からは、彼の審美眼と美術人脈の広さがうかがえる。
壁のタイルは、作陶家で釉薬(ゆうやく)研究の第一人者である小森忍が担当。大広間には能姿の木彫を得意とした牧俊高の作品が飾られ、玄関や食堂は小弥太夫妻も師事した日本画の巨匠・前田青邨(せいそん)の絵画が彩った。招かれた客人は、さぞや驚嘆したことだろう。
しかし、第2次大戦末期の1945年5月、鳥居坂の岩崎邸は空襲で焼失し、終戦後の12月には小弥太が病没してしまう。30年後の1975年に孝子夫人が死去すると、ひな人形も散逸の悲運に見舞われる。
内裏びなを手に入れた京都の愛好家は、あまりの愛らしさに魅了され、数年をかけて全15体のひな人形を探し出す。そして2018年、再び離れ離れにならないようにとの思いから、岩崎家ゆかりの静嘉堂文庫美術館に寄贈した。
1992年に東京都世田谷区岡本で開館した静嘉堂文庫美術館は、岩崎家のコレクションを元にした国宝7件を含む6500件の東洋美術品を収蔵する。同館の展示ギャラリーは2022年10月、三菱財閥が開発した丸の内に建つ明治生命館1階に移った。昭和初期建造の重要文化財で鑑賞するひな人形は、小弥太邸でひな祭りが開かれた時代の雰囲気をより想起させてくれる。
本来ひな祭りは女児の成長を祈る風習だが、小弥太夫妻は子宝に恵まれなかった。愛らしい童子風の人形をオーダーした理由と無関係とも思えない。遺愛の品々からは、「華麗なる一族」の芸術愛と共に、夫婦の愛も伝わってくるようだ。
撮影=花井 智子
取材・文=ニッポンドットコム編集部
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