〈写真多数〉奈良競馬場に奈良ドリームランド…懐かしき「昭和の奈良」
飛鳥時代、奈良時代と日本の中心を担った奈良には、古刹とともに生きた人々の素朴さと活気があった。昭和20~40年代の奈良にあった庶民的な生活風景を、貴重な写真の数々で振り返る。
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戦後を代表する写真家・入江泰吉は、経営していた写真店が大阪大空襲で焼失し、昭和20年に故郷の奈良に引き揚げた。
失意の入江を救ったのは、町の風景や人々の営みで、それらを写真に残した。
入江泰吉記念奈良市写真美術館の学芸員・説田晃大(せつだこうだい)氏が解説する。
「斑鳩(いかるが)などの昔から変わらぬ風景、町を行き交う人々の生き生きとした表情に入江は感動したのです」
元奈良市長で「奈良の鹿愛護会」会長の大川靖則氏が子どもの頃を振り返る。
「私が育った平城村(現・奈良市)は、農家ばかりが暮らしていました。皆、田畑を持っているから食べ物には困らず、けれど慎ましく、歴史的な文化遺産と一緒に生活していました」
興福寺は街頭テレビが来るほど身近な存在だった。寺はコミュニティであり、人々が楽しみを共有する場だった。
奈良の人は堅実だと、奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲(しかたにいさお)氏は言う。
「家業の繁栄を大事にする気風があり、貯蓄率も高い。いざという時のために子孫に財産を残しておくのです」
さらに奈良の県民性にはこんな特徴もあるという。
「自分が暮らす地域や家の歴史への関心が高い。日常生活の中に、1000年以上続く寺社や文化が当たり前のように入り込んでいるのは、先祖代々、それを守ってきたからです」(鹿谷氏)
奈良の人は鹿も古代から脈々と守り続けてきた。
「約1300年前から『神鹿(しんろく)』として保護・敬愛されるようになったと伝えられています。我々は『鹿を殺したら石子詰め(死刑)になる』と聞かされて育ちました」(前出・大川氏)
伝統行事「鹿の角きり」は鹿の角による事故を防止するため、奈良奉行の溝口信勝の命によって寛文12(1672)年に始まった。中断されていた時期もあったが、昭和4年から現在の角きり場で開催されている。