それが消える前に。岩垂なつき評 堀内悠希「カンタム テレポーテーション」
駒込倉庫で開催された堀内悠希の個展、「カンタム
テレポーテーション」は揺れるろうそくの炎を撮影した映像から始まる。ギャラリーのガラス張りの入り口からは、薄暗い室内から漏れる光があり、ギャラリーに足を踏み入れれば、わずかに差し込む自然光に照らされた陶器のかけらが複数足元にあることに気づく。それはよく見ればろうそくを象ったもので、ギャラリーの入り口に近い角に散らばっている。そして映像の傍にある階段をゆっくりと登っていくと、階段の踊り場に展示された大きなドローイングが目に入る。焚き火とその煙、海景、太陽あるいは月と思しきイメージの断片が画面上でつなぎ合わされ、判然としない風景を形づくっている。さらに上階へと向かうと、そこに広がるのは複数のドローイングと陶器による展示空間である。ドローイングはマンガの吹き出しやコマ割り、鏡の反射、窓から見える風景などが抽象的に再構成されており、それらと並んで展示されている陶器は、ろうそくとその炎など、モチーフの形状を象ったオブジェと、陶板の上に細いブルーの線で、星座や風景などが刻まれているものがある。
堀内のこれまでの制作を振り返れば、その多くは日常におけるふとした視覚の倒錯や、認識の歪みをきっかけとして、諸事象を既存の意味づけから引き離す取り組みであった。その片鱗は、アスファルトの不純物がキラキラと反射する様子を星空に見立てた初期の作品《Star
Chart》(2015)にすでに表われている。アスファルトに寝転んだ作家本人を映した写真は、堀内がまるで星空を浮遊しているかのように見せる。ここでは錯覚を利用したささやかな視覚の遊びを通して、オブジェクトが日常的な意味づけを超えて現出しうる姿を、ひとつの可能性として示唆していた。そして多様な展開をみせるその後のドローイングやインスタレーションによって、物事の「意味」はより顕著に融解を始めていくこととなる。夕日でオレンジに色づく雲頂の映像を映し出したブラウン菅のテレビと、斜行した色鮮やかな線を印刷した紙を組み合わせた《Oblique》(2018)では、「夕焼けの空」という概念がいつしか目の前の風景から消え去り、紙片の模様へと統合されていくプロセスを示した。現在でも継続して取り組むドローイングの作品では、波間や雲、アルファベット表などのモチーフを絵具の滲みなどの偶然性に委ねながら、曖昧な輪郭をもって描いている。ここでは本来その対象が持ちあわせていた役割が滲んで溶け出し、網膜に焼き付くひとつのイメージと化す瞬間がとらえられている。
このような堀内の制作は、ジル・ドゥルーズの理論を思い起こさせる。ドゥルーズが語るところの「差異」。それはある対象を定義し、言い表すこと、あるいはそれを再現して描くこと、このような表象作用によって覆い隠されてしまう、物事の「それ自体」と言える(*1)。私たちが物事をみるとき、経験や習慣から得た一般性や、共通概念に当てはめて認識しているだけであって、その対象が本来的に現出させているすべてを受け止めているわけではない。ドゥルーズの理論が理性で認知する世界から諸事象を解放することを目指しているとするならば、堀内の作品における「意味の融解」にも通ずるだろう。私たちが物事を認識するところの、「~である」ことから抜け出したとき、その対象が見せる様相はどのようなものか。堀内の作品は日常のすぐ裏側にある、しかし、同時には決して感知することのできない物事の「ありようそのもの」へと私たちを導く。
本展「カンタム
テレポーテーション」では、発展的な展開のひとつとして、日常的な意味づけを超えて感覚されたある対象が、なんらかの必然性をもって連関する可能性が示されている。展示タイトルとなっている「カンタム
テレポーテーション」とは量子力学における概念の一つで、量子もつれ(*2)の状態にある2つの粒子は、何光年と遠く離れていようとも、対の性質を示すことを指している。例えばAという粒子が上向きのスピン状態となった場合、それとペアの関係にあるBという粒子は逆の状態、すなわち下向きのスピン状態に瞬時に変化するのである。「カンタム
テレポーテーション(量子テレポーテーション)」はこの性質を利用して、遠く離れた場所に瞬時に情報を伝達しようというというアイディアである。しかし、堀内はこの難解な理論に対して、そこまで終始してはいないように思える。堀内を惹きつけたのはむしろ、「遠く離れたもの同士に必然の関係性が存在する」という事実である。
本展において、堀内のこの関心を最も強度をもって体現する作品が、階段の踊り場に展示されたドローイング《Sea, Camp, Moon and
Smoke》である。本作では、キャンプファイヤーの炎と煙、月、海景が画面上に構成されている。それぞれのモチーフがなんであるかは、そのタイトルを手がかりに予測できるものの、実際のところ明確な判別ができるわけではない。しかし、作家の脳内で組み合わせられたイメージの断片が作品として顕然化されることで、鑑賞者の視覚の上で自由な運動を始める。モチーフに意味を当て嵌めようとしていた意識の働きはいつしか消え去り、キャンプファイヤーの煙は海の上の雲と化し、波紋を照らして差し込む月明かりは、テントと思しきイメージの輪郭線と連動する。堀内はこれまでにもそのドローイングにおいて、鏡の反射とマンガの吹き出し、といった一見関連性のないイメージを組み合わせ、鑑賞者の視覚に委ねながらそれらが連関しうる瞬間を探ってきた。本作においてもそれは同様であるが、画面上でのイメージの断片は相互作用によってそれぞれの運動を活性化させ、画面全体を循環する大きなエネルギーへと結実している。本作は諸事象の連関の可能性が、よりダイナミックな広がりを持って提示されていると言えるだろう。物事が日常の意味づけを飛び越え、それ自体のありようを露わにして見せたとき、その存在はたんなる偶然の産物なのだろうか。もしかしたら、私たちが予想もしない必然性を持って、どこかにある何かと呼応しているのかもしれない。堀内の作品はこのような「可能性」の思索へと見る者を促す。
また、本展では時間や空間概念への関心が意識的に表現されていることも、特筆すべき点として挙げられる。それは本展冒頭の映像インスタレーションと、新たな取り組みとしての陶器の作品に見ることができる。映像作品でモチーフとなっているろうそくは、その1本がカンデラという光源の単位に相当し、古くから宗教的な儀式や瞑想に使用されるなど多様な役割を担ってきたが、計時に使用されていたことから時間のメタファーとしても考えられる。実態のない炎はつねにその様相を変化させ、ろうは火をつけた瞬間から溶け始める。堀内は本作において、一瞬たりとも同じではいないこの対象を16mmフィルムに多重露光で映し取っている。映像のなかでは異なった時間軸の像が重なりあい、ある瞬間のろうそくは、別の瞬間のろうそくへと炎を移そうとする。本作は時間や空間の境界を横断して、物事が互いに関係し合う可能性を探っている。
そして映像作品と同じ空間に展示された陶器のオブジェは、同様にろうそくとその炎をモチーフとしている。《Shadow of
Candle》と題された作品群は、ろうそくの形状をなす陶器の下に、同形の「台座」が付いている。堀内は本作に関し、「実態のないものに物質性を与える」試みであると語っている。そもそも質量を持たない炎はそれ自体明確な形を持たず、「影」をつくることがない。さらに「影」それ自体もまた、実態のない現象である。これらに3次元の物質性を与え、残そうとしているのが、陶器のオブジェなのである。本作は次元という空間概念を自由に横断すると同時に、土に還らずに存続する陶器の性質を利用して、その様相を時間を超えて留めようとする。
また、3階でドローイングと並んで展示されている陶板の上には月の風景、折り紙の船、北斗七星などのイメージがスケッチのような細い線画で刻まれている。これは粘土にニードルで線を描いたうえで、染め付け用の絵具を塗り込み、表面をふきとった後に焼成したものだ。ルーズリーフを模したというこれらの陶版に描かれたイメージは一見直感的なスケッチのようにも見えるが、実は段階を経て形づくられたものであり、確かな物理的痕跡としてそこに残されている。その外観はどこか、古代文明の歴史を刻む粘土版を彷彿とさせるのである。ろうそくを象るオブジェとともに、これらはいつかどこかで「発掘」されるかもしれない。このような時空に対する堀内のアプローチもまた、目の前の対象の「意味」を融解させる取り組みの一端として考えられる。時間や空間もまた、物事を「いつ」「どこ」といった枠組みで定義づけるひとつの概念に過ぎないからだ。
私たちが共通認識として持っている一般性、定義といったもので目の前の対象を括ろうとするとき、その存在をそれ自体として感覚し、思考する機会は著しく奪われてしまう。しかし、それでも日々のなかでほんの一瞬、物事があらゆる枠組みから抜け出し、ありありとその姿を現すことがある。それは例えば太陽を熱い光として、色として受け止めた瞬間、あるいは波間の様子を光の反射する形として、その運動として感覚した瞬間である。堀内はこのような瞬間を、人より多く知っているのかもしれない。だからこそ、物事があらゆる境界を超えて連関する必然性を探り、「ありようそのもの」のさらなる深奥へと手を伸ばすのだ。堀内の作品は、一見するとイノセントな視覚の戯れのように感ぜられる。しかし私たちは実際、それらを切実さを伴ったものとして受け取るべきではないだろうか。堀内は書き留め、そして残そうとしているのである。存在そのものが無数の「意味」のなかへと埋もれ、その痕跡を消し去ってしまう前に。
*1──ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』
「差異が肯定される世界は、表象=再現前化から、ひたすら逃げてゆくばかりである」(財津理訳、河出文庫、2007年、161頁)、「感覚されることしか可能でないもの、感覚されうるものの存在そのもの、すなわち、差異、ポテンシャルという差異、質的に雑多なものの理由としての強度という差異、これらを、わたしたちが、感覚されうるもののなかで直接に把握するとき、まことに経験論は、先験的になり、感性論は、必当然的(ルビ:アポデイクテイツク)な学問の分野になる」(同書、164頁)参照。
*2──電子のスピン状態は便宜上、「上向き」「下向き」で表される。ひつつの電子は上向き、下向き両方の性質を持つことができ、観測することでどちらか一方の状態に確定する。これを「重ね合わせ」状態にあるという。「量子もつれ」とはこの「重ね合わせ」状態の粒子2つがペアになることをいう。京都産業大学ウェブサイト「量子力学が創り出す不思議な世界-量子テレポーテーション!-」参照。[https://www.kyoto-su.ac.jp/project/st/st04_04.html](最終アクセス:2023年2月24日)