ジェンダー問題に戦争、分断された現代を生きるための西田幾多郎の哲学
西田哲学は「今・ここ」の現実を大切にする思想である。私たちが生きているのは常に「今・ここ」の現実である。「今」以外の過去や未来を生きることはできないし、「ここ」以外の他の場所を生きることもできない。
西田自身、「実在は現実そのままのものでなければならない」という考えを高等学校の頃からもっていたという趣旨のことを述べている(『西田幾多郎全集』第1巻4頁)。
「今・ここ」の現実を〈生
(
なま
)
の現実〉と表現するならば、西田哲学では〈生の現実〉を中心にして自己と世界の関係を考えていくことができる。前期の「純粋経験」は自己の側からこの世界の現実を捉える立場であったのに対して、中期の「場所」は自己の根源ともいえる場所へと徹底して遡源
(
そげん
)
していく立場であり、さらに後期の「歴史的世界」では根源的な場所=世界の側から自己を含む現実を捉え直す立場へと発展していったのである。 この西田哲学からどのような現代に生きるアクチュアリティを読み取ることができるだろうか。
西田は『善の研究』において「純粋経験」という言葉を用いて、私たちが生きる〈生の現実〉には汲み尽くすことのできない豊かな情報が含まれていることを明らかにしていた。現実がもつ豊饒さ、豊かさは古今変わるものではない。
ところが、現代の電子メディアは私たちの現実を激変させた。私たちが触れる〈生の現実〉は少なからず電子データによって抽象化されたものに変質している。これはどういうことか。
例えば、海岸の映像を見ることと実際に海岸に行ってみることを比べてみよう。現在では高度な映像技術によって鮮明な海岸の映像を視聴することができる。だが、実際に海岸に足を運んで浜辺に身を置いたとすれば、映像をはるかに超えるものを感受することができる。
陽光の温もりや磯の香り、そして海水に触れた冷たさといったものは、いずれもデータ化された映像からは感じ取れないものである。このように、その場所で直接触れることのできる〈生の現実〉=純粋経験には、電子データには還元できない豊富な情報が含まれている。私たちがパソコンやスマホの画面から目を離してみれば、眼前にははるかに豊かな現実が広がっているのである。