司馬遼太郎生誕100年 「世に棲む日日」と「花神」に満ちあふれる幕末の熱きエナジー
風がすがすがしい。この町にはどこかしら清廉な匂いがする。
萩市は日本海に面した城下町。ここに、幕末、松陰が、後に激動の時代を牽引(けんいん)していく若者たちを教えた私塾「松下村塾」が往時の姿のまま残っている。塾生には倒幕に命を燃やした高杉晋作をはじめ、長州藩の尊王攘夷派、久坂玄瑞(くさかげんずい)、日本初の総理大臣になった伊藤博文…そうそうたる人材がいた。
が、松陰が教えたのはわずか2年ほど。彼自身は29歳の若さで刑死している。それなのになぜ、これほど多くの人材を育てることができたのだろう。
そんな疑問を抱きつつ萩市を訪ねた。松本川の西には白壁やなまこ壁が続く閑静な城下町の街並み。松下村塾は川を挟んで東の松陰神社内に建っていた。
その小ささに驚いた。わずか50平方メートルほどの木造の平屋建てで簡素なことこの上ない。一間(ひとま)には松陰の肖像画と塾生たちの後年の立派な写真が掛けられている。
《これではどうも生涯、松陰についてゆくしか自分のみちはないかもしれない、と高杉はおもった》
松陰に初めて会ったときの高杉の心情が「世に棲む日日」に描かれている。
本書は、幕末から明治への変革期、長州藩の思想的原点となった松陰と、塾生だった高杉を中心とした歴史群像劇。
その日、松陰は高杉の書いた詩文集を読むと、「久坂くんの方がすぐれている」と言い、文章の欠点を指摘した。自負心の強い高杉だったが、松陰の言葉に《昂奮(こうふん)をおぼえた》と司馬さんは書いている。
《高杉がはじめて自分とは何者かということを知った衝動によるものであろう》
思えば、松陰が短い生涯に試みた企てはことごとく失敗に終わっている。松下村塾で教えていたのは、1854年に下田沖のペリー艦隊に乗り込んで密航しようとして失敗、自宅に幽閉されていたときであった。
萩博物館の特別学芸員、一坂太郎さんは「だからこそ塾生たちは師の志を継ごうとしたのではないか」と分析する。
松陰のひたむきで一つの物事に直進していく姿は人の心を動かした。彼の純粋な行動と失敗、非業の死。それらが激動の時代に一種のヒロイズムともなり、塾生に「自分が継がねば」と思わせたのではないかと。
◇
現在の大阪市中央区北浜のビルの間にタイムスリップしたように建つ立派な日本家屋。ここが、1838年、洪庵が蘭学を教えるために開いた適塾である。
1階に塾生の勉強部屋や客座敷、洪庵の書斎などがあり、急な階段を上ると約30畳の大部屋がある。塾生が寝起きし勉強していた部屋で真ん中の柱には刀傷のような傷が無数に見えた。
1人1畳あてがわれたそうだが、夏は耐えられないほど暑かった。「花神」には全裸になって学問に励む塾生の姿が描かれている。
その「花神」。主人公は大村益次郎(ますじろう)。村医から討幕軍の総司令官となり、日本の兵制の近代化につとめたが、明治2年、暗殺された。現在の山口県の生まれで、23歳で適塾に入り、蘭学を学び、塾頭にもなった。
師の洪庵は学問だけでなく、すぐれた人格者で、自分と弟子への戒めとして書いた訓戒の第1条には「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。(中略)人を救うことだけを考えよ」と記している。
洪庵自身はあまりにも多忙なこともあり、塾生全員を直接指導していたわけではなかったが、大阪大学適塾記念センターの松永和浩准教授によると、「洪庵は自分の背中で塾生に教えたのでしょう」とのこと。「近代的で合理的な精神や立派な人格が塾生に自然に浸透していったのではないでしょうか」
一見、正反対に見える松陰と洪庵。だが、自身の利益や名誉ではなく、人のことや藩、国を第一に考える精神は共通しているように思えるのだ。
一坂さんは「2つの塾はどちらも日本の近代化に必要だった。松下村塾は武士の塾として改革の原動力となる思想の基盤となった。一方、適塾は当時最先端の蘭学、医学を実用的に教える場。2つの柱が互いに支え合ったのです」。
教育とはただ知識や学問を教えるのではない。師が全人格で生徒と向き合ったとき初めて大きな力が発揮されるのではないだろうか。
夏はうだるような暑さの適塾も、粗末な建物の松下村塾も、時代を変えていこうとする若者たちの熱いエネルギーに満ちあふれていたに違いない。