タクシードライバーの五輪物語――「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(63)
NYマンハッタンのハドソン川沿い、47ストリートのアパートを出るとイエローキャブの運転手に低い声で告げた。
「ウォール街?それともグリニチビレッジ?」
「いいからまっすぐだ」深夜だというのに昼間の熱い空気が街の角々にへばりついている。
「旦那、ジャパニーズかい。東京五輪の成功、おめでとう」
運転手はかなりの高齢だが、肩の筋肉は意外に厚く見える。考えすぎだろうか。私は手の込んだ詐欺にあって追い詰められていた。手っ取り早く金を手に入れるにはタクシー強盗しか思いつかなかった。こんな老いぼれなら簡単に殺れるはずだ。ベルトに挟んであるベレッタM92の銃身をもう一度確かめた。
「ジャパニーズの旦那、さっきニュースでやってたよ。ジャマイカの110メートル障害の選手がバスを乗り間違えちまってさ、違う会場へ行っちゃったらしい。ところが、親切な大会スタッフの女性がタクシー代、100ドルを用立ててくれてレースのある国立競技場に間に合ったとさ。結果は金メダル。すげえ、あんたの国でしか起こりえない奇跡じゃないか」
「運ちゃん、スポーツが好きなのかい」私は話を合わせた。
「好きどころじゃないよ。こう見えても、昔ボクシングをやっていたんだ。キューバ代表で東京五輪へ行った。1964年のことだ。大昔だな。友達のエンリケ・フィゲロラが100メートルで2位だったよ」
前回の東京五輪、私はまだ田舎の小学生だった。しかし、アベベやヘーシンクの記憶は鮮烈だ。100は確かヘイズが優勝した。ダイナミックなフォームは獲物を追う肉食獣を思わせた。
「ヘイズの次にゴールテープを切ったのか」
「ああ、大したものだろう」
「あんたのボクシングの方は?」
ドライバーはバックミラー越しに片目をつぶってみせた。
「悔しいけど、だめだった。2回戦でノックアウト負け。ワシのボクシング人生はあれで終わりさ」
運転手によれば、キューバはボクシング大国でこれまでに78個のメダルを獲得している。彼自身も期待されての五輪だったはずだ。仮にメダルを故国に持ち帰っていたら、あるいは人生が変わっていたかもしれない。
雨が降り出した。ついてない奴はどこにもいる。私がいい見本だ。奨学金で大学を卒業、何とか小さな商社に入った。真面目に働いたものの、突然の倒産。得意の英語のおかげで外資系のメーカーに潜り込んだ。そこも上司とケンカして飛び出した。
やけ酒に博打の毎日で子供も2人いたが離婚。いまはブローカーまがいの仕事で何とか生きている。運の悪いことは続くものらしく、なんと詐欺にあってしまった。人を信じた自分が馬鹿なのか。内に溜まった不安や不満が発酵して耐え難い腐臭を放ち始めている。もう我慢の限界だ。余計なことを考えずに決行するしかない。思わず、ベレッタを引き抜いた、その時だった。
「ワシは運が悪かったとは思っていない。メダルを取っていても、いずれキューバを出ていただろうよ」私の心の内を見透かしたように、男は言った。「キューバでは1959年に革命が起きた。ワシはブルジョア階級の出身だった。五輪前から冷遇されていたんだよ」
タイヤをつないだ筏でフロリダを目指した。若妻は大波にさらわれたという。
私は体の強張りを解いた。男はまっすぐ前を見たまま話を続ける。道の両側は闇が広がり、遠くからジャズが流れてくる。
「実はワシも東京で試合会場を間違えてな」
「ボクシングの?」
「そうさ。外国から来た観光客と思われたのか、タクシーに小石川後楽園に連れていかれたんだ。会場は後楽園アイスパレス。普段はアイススケート場だ。だから、いくらオリンピックだ、ボクシングだと叫んでも通じないんだ」
私は何かおかしくなって声を立てて笑い出した。試合時間が迫り、コーラクエン、コーラクエンと涙を流さんばかりに訴えるキューバ人と、ここ、ここだよ、ここが後楽園だと困りはてた顔で、元水戸徳川家の美しい庭園を指さす運転手。これが笑わずにおられようか。
そこへ和服の女性が通りかかったのだという。たおやかで美しい彼女はすぐに事情を察し、的確な判断と指示で男はボクシングの試合に間に合ったそうだ。
それからしばらくして、彼女からキューバに帰った男にハガキが届いた。
試合に間に合ったようで安心したこと。試合に敗れて打ちひしがれているかもしれないが大事なのはこれまで積み重ねた努力と、当日、全力を尽くして戦ったという事実。何より、世界の人たちと一堂に会して切磋琢磨し讃え合う機会を持てたこと、それこそがあなたの財産で、これからの人生を豊かにしてくれるであろうという内容が美しい字で綴られていた。そして、最後にこうあった。
「5年前、チェ・ゲバラが私の故郷、広島を訪ねてくれました。貧しくても懸命に生きているキューバの人たちが好きです」
米国へ亡命しても故国を忘れたことはない。辛いこと、苦しいこともあったが、このハガキを見て励まされ逆境を乗り越えてきた、今も生活は苦しいが、自分の人生に誇りを持っている。
男の岩のような確たる生き方に比べ自分の人生はなんだったのか、私はドンと背中をど突かれたような気がした。手にしていたベレッタを静かに鞄に戻した。
「旦那、そろそろダウンタウンだよ。どこに?」
「ああ、そこでいいよ。その信号の向こうで止めてくれ」
料金を払って降りようとした時、男は小型のクリアファイルから大事そうに何か取り出した。例のハガキだ。
「ワシの宝物だ。いつも持ち歩いている。彼女は亡くなった、白血病でな」
ハガキは角が丸くなり紙がけば立っていた。私は言わずもがなのことを言った。
「あんたの名前を聞いてもいいかな」
その瞬間、鋭い左ジャブが飛んできた。もちろんポーズだ。ドライバーは、昔の話だ、忘れてくれ、そう言って笑った。赤いテールランプが遠ざかる。勇敢に戦い敗れたボクサー。男を支えたひとりの日本女性。
その物語は、これからの私に十分、力になってくれそうだった。
(完)
希代 準郎
きだい・じゅんろう
作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。