「誰が」そこから見ているのか? 清水穣評 松江泰治「makietaTYO」展
TARO
NASUでの松江泰治の個展は、同時期に開催された東京都写真美術館での「マキエタCC」展とともに、作家の最新のシリーズである「makieta(ポーランド語で都市や国土の模型のこと、マケット)」を公開し、東京という都市を対象にしてデジタル写真の現在を刻んだ、この作家にしては意外なほど、熱の込もった展覧会であった。意外というわけは、「makieta」がそこからの展開である「CC(City
Code)」が、厳格な形式──晴天、順光、正対、横位置、地平線・水平線の排除、絶対ピント──に、地上の高位置からの展望写真である「CC」にとって可能であるかぎり、従うシリーズだからである(最後の「絶対ピント」とは、無限遠に合わせて撮影し、レンズの原理から自動的に得られるピントのことで、つまり「絶対」とは肉眼を前提としないという意味である)。上の条件に、ヘリコプター飛行の「低い高度」を追加して空撮することで、地上の様々な制約から自由になった、さらに厳格なシリーズが「JP-」であり、その名の通り21世紀の日本各地を空から写しとどめるシリーズである。
「CC」が、地上の丘や崖、教会の塔や高層ホテルの上から撮影されるのに対して、「makieta」では、最初から都市全体の模型が与えられている。地上に縛られた「CC」よりも、模型都市に対してはるかに高い位置を取ることができるわけで、つまり「makieta」の写真は仮想の空撮と見なせる。「makieta」の本質はここ、つまり「CC」と「JP-」のあいだに現れる。maekitaはいっぽうで、CCではあまり意識されないことを意識に上らせ、他方で、仮想の「JP-」を演じることにより「JP-」に内在する政治的次元を顕わにする。
いつの時代でもどの文化圏でも、上からの眺め(View from
Above)とは土地と民と敵を見渡す支配者の視界であるから、地上の高い場所からの展望や空撮写真は、当然のように軍事的、政治的意味を帯びてきたし、帯びている。気球からパリを空撮したナダールの当初からそうであったし、航空写真の基本的な機能もそうである。「ストレート写真」の美学が空撮写真という形式を通じて「知覚のロジスティクス」(ポール・ヴィリリオ)にとり本質的な役割を果たしてきたことも指摘されて久しい(*1)。「すべてを光の下に照らし出そうとする意思、あらゆる場所において、またあらゆる瞬間において、すべてを観て知ろうとする意思、これは[…]神の眼のテクノロジー的形態なのである(*2)」とヴィリリオが語ったとき、彼は、その神の眼を持つ主体が、もはや人間ではないこと、すなわち「知覚のロジスティクス」の脱人間化(「絶対速度」化)を論じていたのだった。いまGPSを日常的に利用する我々は、空中どころか衛星から個々人の位置が特定可能なほどに、「上からの眺め」に支配されつくしている。松江泰治の「makieta」は、知覚のデジタル化がもたらすこのようなロジスティクス、あるいは脱人間化と密接に関わり合っている。
「makieta」と「CC」
「CC」ではあまり意識されないこととは何か。「CC」のルールのひとつは、地平線や水平線を入れないこと、つまりオールオーバーの画面である。その結果、「彼方」「向こう側」といった画面内空間へと視線を誘う効果はシャットアウトされ、画像全体がフラットに前面化するため、見る者の注意は、空間的な深さではなく、高解像度で詰め込まれた稠密な情報の深みへと導かれる。「CC」は都市の無限の細部への没入を誘発し、見る者はその没入の効果によって、「誰が」「どこから」その風景を撮影したのか、見ているのかを忘れる。
他方、「makieta」は都市の模型の写真であるので、「稠密な情報の深み」に没入しようとしても、模型の緻密さによってはすぐに物理的な限界に突き当たってしまう。その結果、没入は遮られ、見る者は「自分が」、かつてその「makieta」をつくらせた独裁者や帝王に成り代わって、模型を眺めていることを意識する。模型の素材や細部の出来に目を凝らすのはその後である。
先に述べたように、空撮はただちに軍事・政治的なものを露出させる。その意味するところは、空撮写真とは「上から眺める者=政治的支配者は誰か」と問わずにはおかない写真だということである。「JP-」は、基本的には21世紀日本の「風土記」(作家本人の言葉)として撮られているが、それが日本の空であることによって、自動的に、他の国には見られない特殊な政治的環境──いわゆる「戦後レジーム」──を反映する。日本の空は日本人のものではない。横田空域と岩国空域という巨大な空間が、米軍にリザーブされているからである。横田空域は横田基地のための空域であるから、首都の西側まで広く覆っている。東京を隈なく空撮したければ、米軍の許可がいる、と。
本展は、森ビル株式会社が所有する精密な東京の模型(非公開)を撮影した「makieta」のシリーズである。もとの模型は、実際に空撮した写真を建物や海の表面に貼り付けてつくられているので、かなりリアルである。が、パーツを組み合わせてつくられている巨大模型では、とくに注視しなくてもその継ぎ目が露わであって、しかもそれを作者は隠そうとしていない。また、この模型は当然ながら所有者の関心に基づいているので、関心外の範囲(とくに首都圏西側)は含まれていなかったり、アップデートされないままだったりする。ひとつの模型のなかに、最新の東京(六本木ヒルズの周り)、未来の東京(完成した渋谷駅周辺)、過去の東京(下町)が同居しているわけである。展覧会は中判作品と大判作品の2系列に分かれ、前者はだいたい「CC」の模型版、後者は高度を高くとって広範囲をカバーした仮想の「JP-」であった。どちらも実撮影の後で、デジタル技術──焦点合成など──を駆使して画像を変換し、作品化したものである。
さて、「makieta」は、「CC」では意識されなかった「主体」の意識(「誰が」見るのか)を浮上させるのであった。他方で仮想の空撮「JP-」としての「makieta」は、「上から眺める者は誰か」と問わずにはおかない。この2つが重なったとき、展覧会は奇妙な攻撃性を帯びた。「上から東京を眺める者」はアメリカ人であるから、日本人にできることは、模型の東京の上を自由に飛び回ることだけだ、「makieta」によって浮上する「主体」は模型を眺める主体にすぎず、本当の「主体」は我々にとって不在だ、と。日米地位協定下の戦後レジームとは、端的に言って、戦後75年経ってなお、日本に「主体」が欠けていることであろう。その苦い皮肉が、東京の「makieta」を美しく過激に歪めている。
しかし、松江作品はここで終わりはしない。作品制作に投入されたデジタル技術の詳細を、完成作品から推し量ることは不可能であるが、いくつかの中判作品では焦点合成(Focus
Stacking、画面のすべてに焦点が合っている画像)の効果がはっきりと現れていた。ピントの異なる複数の画像を合成して、対象の全面にピントが合った画像をつくり上げるこのデジタル技術に、あの「正対」というルールが適用されたとき、現実にはありえないデジタル画像に「正対」し、攻撃的なほど隅々までくっきりと写されたその細部のすべてを受け止める、仮想の「主体」が析出される。つまりデジタル写真の最先端としての「makieta」は、現実の東京には欠けている「主体」を画像から仮構し、観客をその位置に立たせるのである。
*1──Allan Sekulaの論文「The Instrumental Image: Steichen at
War」(『Artforum』December 1975, vol.14, no.4)など。
*2──ポール・ヴィリリオ『戦争と映画―知覚の兵站術』(石井直志・千葉文夫訳、平凡社ライブラリー、1999、19頁)の序文より。
(『美術手帖』2022年4月号「REVIEWS」より)