ルノワールの名作はここにある。国内美術館で見られる代表作をピックアップ
「私が描くのは、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ」とルノワール本人が述べるように、その作品は豊かな色彩と筆が描き出すやわらかい風景や、愛らしい子供、ふくよかな裸婦であり、それらは幸福感に満ちていて、見る者を穏やかで温かい気持ちにさせる。このため、いまも世界中から愛され、日本でも多くの美術館が作品を所蔵している。
とくに国立西洋美術館、アーティゾン美術館、ポーラ美術館、吉野石膏コレクションには、ルノワールの画業の各時代を代表する名作を含め、変遷をたどることのできるラインナップが揃う。また、ひろしま美術館、大原美術館が所蔵する作品には、ルノワールと日本との関わりを示す重要なものが含まれている。
以下、その画業を追いつつ、作品を見ていこう。
ルノワールは1841年、フランス中南部の磁器で知られるリモージュで貧しい仕立て屋の息子として生まれ、3歳の頃に一家でパリに移る。早くから絵に興味を持つと同時に美声の持ち主でもあったとされる彼は、作曲家のシャルル・グノーから聖歌隊への入隊を勧められるも、親の希望で磁器の絵付師の徒弟となる。
彼自身はこの職業に将来を見いだしていたようだが、折しも産業革命時代。絵をプリントする機械が発明されたため、独立する直前に失業する。その後は扇子制作やカフェの壁画装飾などの職人仕事をこなしながら、授業料が無料のデッサン学校に通ったり、ルーヴル美術館での模写などに励んだという。
この頃にフランソワ・ブーシェ(1703~70)やジャン=オノレ・フラゴナール(1732~1806)らによる18世紀ロココ絵画や、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)の作品にふれる。以後、こうした古典への崇敬は消えることなく、彼の豊かな色彩の源泉ともなった。これは、ルーヴル美術館を毛嫌いし、古典を顧みることがなかったと言われるモネと異なる点であり、同じ印象派と称されるなかでも表現の大きな違いとなって表れていく。
ルーベンスへの傾倒は、国立西洋美術館が所蔵する初期作品《ルーベンス作「神々の会議」の模写》(1861)で確認できるだろう。
やがてルノワールは1861年に画家になることを決意し、私設の美術学校に入る。ここで、モネやアルフレッド・シスレー(1839~99)ら、のちの印象派のメンバーと知り合い、一緒にフォンテーヌブローに赴いて制作を行ういっぽうで、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)で古典的なデッサンも学んでいる。印象派の主要メンバーのなかでただひとり、労働者階級出身の彼にとって、当時アカデミーが主催していたサロンに入選することが、画家として生きていくための最大の目標だった。
1863年からサロンに応募を始め、翌年に初入選する(ロマン主義的な暗い画面だったというが、本人が塗りつぶしてしまったため残っていない)。以後、友人やウジェーヌ・ドラクロワ(1798~1863)の影響もあって、画面は明るくなり、色彩の才も開花していく。毎年サロンに出品するも、この時代にはサロン自体が変革期を迎えており、評価基準が揺らぐなか、入落選を繰り返す。
1869年にモネとともに屋外で制作した《ラ・グルヌイエーヌ》(スウェーデン国立美術館蔵)で、パレット上で色を混ぜずに、そのままキャンバスに点として置く、筆触分割の手法を編み出したと言われる。このとき、モネとルノワールは同じ情景を描きながらも、モネの同名の作品(メトロポリタン美術館蔵)が水面の光の反射をとらえているのに対し、ルノワールは、そこに集うブルジョアジーたちの姿に注目していることが感じられる。
1870~71年の普仏戦争の中で成立した第三共和政下、1872年のサロンに出品した《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872)が落選。これは、70年のサロンに出品したドラクロワへのオマージュ作品、《アルジェの女たち》が好評だったことを受けての制作だったと思われる。72年のサロンでは仲間たちの作品も多くが落選し、こうした動向を契機として、74年、のちに「第一回印象派展」とよばれるようになる展覧会が開催される。
彼がこの新しい発表の場の構想に参画するきっかけともなった《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、国立西洋美術館が所蔵する。第二次世界大戦末期にフランス政府に接収されていたが、ほかの作品とともに戦後寄贈返還された松方コレクションの1点。彼の初期代表作のひとつだ。オリエンタリスムを感じさせるドラクロワ風の画面には、彼から学んだ豊かな色彩が反映されており、同時に女性の白く輝く豊かな肉体には、ルノワールが終生追い続けたものを見い出せる。
この頃の画風は、吉野石膏コレクションの1点である《庭で犬を膝にのせて読書する少女》(1874)が伝えてくれる。庭で子犬を膝にのせて読書する少女の姿は、木漏れ日のやわらかい青に染まっている。この時期のルノワールは陽光の影を青や紫で表現しており、透明で澄んだ空気の揺らぎが美しい作品が多い。それでも彼が描きたかったのは光や空気ではなく、目の前の少女の姿だ。これは、風景においても同様で、彼が描く対象にしたのは外光のなかに確かに存在している建物や木々であることが感じられるだろう。
しかし、第2回印象派展(1876)で《陽光の中の裸婦》(1876)が「腐敗した死体のよう」と評されたように、その表現は当時の絵画の常識ではなかなか理解されなかった。いっぽうで、少しずつではあるが、彼には肖像画の依頼が来るようになる。新興階級としてのブルジョワジーたちが、自宅に飾るための作品としてルノワールの愛好者となっていく。なかでもよく知られているのが、シャルパンティエ夫妻やダーンヴェール家だ。
シャルパンティエ家の娘を描いた傑作《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(1876)がアーティゾン美術館にある。青いドレスに身を包み、おしゃまに足を組んだ少女は、深い色合いで描かれた豪華な調度品に囲まれて、そのふっくらとやわらかい肌を輝かせる。幼いながらも理知的な微笑を浮かべた表情は愛らしく、見る者を思わず微笑ませる、世界に誇れる一作だ。
群馬県立近代美術館が所蔵する《読書するふたり》(1877)も、同家の装飾画のモデルを務めたマルゴと、ルノワールの弟エドモンを描いた秀作。やはり黒いドレスの少女の透けるような白い肌が印象的だ。「私が好きなのは肌だ。ピンク色で血のめぐりのいいのが見える若い娘の肌」とも語る彼が、肖像画家として人気を博していく大きな魅力がここにある。
人物画を得意とした彼は、印象派の他の画家たちに比べるとそれほど多くの風景画を残していないが、日本では、時代を通じて彼の風景画を見ることができる。
国立西洋美術館が所蔵する《木かげ》(1880頃)は、印象派の筆触分割によって外光や大気をとらえようとした、彼の初期風景画の一作だ。細かい筆致で描かれる木々は、画面奥へと続く道を浮かび上がらせる。目の前に立つと、植物が放つ生気あふれる空気を嗅ぎながら、そのまま眩しい光に満ちた絵の中に入り込んでいくかのような感覚になる。
このほか風景画では、モネのいるアルジャントゥイユを訪ねた際に制作された《アルジャントゥイユの橋》(1873)が上原美術館に、後半生を過ごしたカーニュをのびやかに描いた《カーニュのテラス》(1905)がアーティゾン美術館に、そしてポーラ美術館には《カーニュの風景》(1905)をはじめとした風景画4点が、ひろしま美術館には晩年に描いたセーヌ河の風景画《クロワシー付近のセーヌ河》(1911)が所蔵されている。
1881年になると、モネたちを通じて知り合った画商ポール・デュラン=リュエル(1831~1922)が、ルノワールの作品を定期的に購入するようになる。経済的に落ち着いた彼は、アルジェリアへ、次いでイタリアへ旅をする。
印象派展では、サロンに出品するモネやルノワールたちと、あくまでもアカデミーへの出品を拒否するエドガー・ドガ(1834~1917)との間で、軋轢が生じていた。同時に、人物のボリュームや堅固な存在を表したいルノワールにとって、光と大気に溶け込み、輪郭があやふやになりがちな印象派の描法は危機感を生みつつもあった。
アルジェで敬愛するドラクロワの描いたオリエントを実見し、ローマで冷やかしのつもりで見に行ったラファエロ・サンツィ(1483~1520)のフレスコ画に感動した彼は、印象派の画風を離れ、デッサンを重視する古典主義へと回帰していく。
フランスの古典主義の巨匠、ニコラ・プッサン(1594~1665)から新古典主義のジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780~1867)らに学ぶようになると、画面には輪郭が戻り、写実性の高い作品が描かれる。
「アングル風」とされる一連の作品は、ややもすると冷たく硬質な印象を与え、画商やパトロンたちのあいだでは不評だったとも言われるが、ダンス三部作とされる《ブージヴァルのダンス》(1883、ボストン美術館蔵)、《田舎のダンス》、《都会のダンス》(ともに1883、オルセー美術館蔵)や、「水浴図」のひとつの集大成である《大水浴図》(1884-87、フィラデルフィア美術館)など、多くの代表作が生み出されている。
もともと古典的な主題である「水浴する裸婦」は、職人時代からルノワールが親しんできたもの。新しい表現を求めて古典を見直した彼が、このテーマに取り組んだのは必然であったと言える。この後、女性の裸体は彼の作品における重要な主題となっていく。
アルジェリアでの足跡と「アングル風」時代の秀作は、ポーラ美術館で堪能できる。
このほか、笠間日動美術館が所蔵する《泉のそばの少女》(1887)にも、アングルの古典的主題を現代の肖像へと接続しようとした彼の意図を読みとれるだろう。
花や果物も、女性とともに彼が愛した対象だった。バラ、ダリヤそしてアネモネをとくに好み、これらも晩年まで繰り返し描いている。
いずれも、その質感や香りがにおい立つような、生命力にあふれたすばらしい作品だ。吉野石膏コレクションの《桃》(1871)や、ポーラ美術館の《アネモネ》(1883-90頃)、上原美術館の《果物の静物》(1902)、国立西洋美術館の《ばら》(制作年不詳)などで楽しめる。
1886年にはニューヨークで印象派の作品が紹介され、アメリカ人の注目を集めて印象派の人気が高まってくる。1890年以降はルノワールの評価も定まり、フランス国家からレジオンドヌール勲章が授与されたことも相まって(1890年の初回は辞退、1900年、1911年、1916年に受章)、好きなテーマに取り組める環境を得る。
慢性的な神経痛や関節リウマチを患ったルノワールは、療養のため南仏(エッソワ、カーニュ)とパリの3ヶ所を行き来しながら制作を続けた。この頃になると「アングル時代」を脱し、まさに「ルノワールの画風」が完成されていく。少女像や裸婦像、身近な家族の肖像など、描くことの喜びが伝わる、幸福感に溢れた作品たちが生み出される。「真珠色の時代」とも言われるこの時期の名作は、国内でも各地の美術館で見ることができる。
1903年以降は、カーニュに移り住み、晩年までここで過ごす。子煩悩でも知られたルノワールは、長男ピエール、次男ジャン(のちに映画監督となる)をよく描いたが、とりわけカーニュで授かった三男クロード(通称ココ)を溺愛し、成長記録のように絵に残した。ココのかわいらしい赤ちゃん時代の作品《クロード・ルノワールの肖像》はDIC川村記念美術館で見られる。
晩年にはリウマチが悪化し、車椅子に乗り絵筆を手にくくりつけて制作する姿が写真にも残されている。絵筆を変えられないので、色を変える際には都度筆を洗わなければならず、そのために筋肉は硬化してかなりの苦行であったと思われる。しかし、そのようにして生まれた作品は、「バラ色の時代」ともいわれる通り、燃えるように揺らめくバラ色に染められて、やはり歓喜に満ちている。
ひろしま美術館所蔵の《パリスの審判》(1913-14頃)は、パリで出会ったルノワールの作品に魅せられた梅原龍三郎(1888~1986)が、彼を訪ねて作品(《水浴の女》とされる)を譲り受けた際に、そのアトリエで見た3点のうちの1点。残る2点のうちの1点も現在日本にあり、三菱一号館美術館に寄託されている。梅原は、晩年にこれらをもとに自身の《パリスの審判》(1978)を描いた。
大原美術館が所蔵する《泉による女》(1914)は、岡山の実業家であり同館の設立者でもあり、大原孫三郎の依頼により描かれた作品。完成した作品は安井曾太郎が受け取り、1915年には東京で開かれた「第12回太平洋画会展」で公開されて、その稀有な機会は多くの画家を感動させたという。
ルノワールについて、アンリ・マティス(1869~1954)は「セザンヌに次いで、純然たる抽象化からの救い」と評し、パブロ・ピカソ(1881~1973)は彼を「法王」と呼んだ。20世紀絵画の二大巨匠をも魅了したルノワール。晩年の彼のアトリエには、多くの若手画家が訪れたという。
目の前にあるものを慈しんで愛する、そのまなざしがとらえる「現実」は、日常の命の輝きを発して、生きることそのものとそれを表現できること喜びで私たちを包み込む。彼が抱え込んでいたであろう人生の様々な葛藤をも感じさせない、圧倒的な幸福感。この強さこそ、ルノワールの魅力なのだろう。コロナ禍、戦争、自然災害など、不穏なニュースの絶えないこんな世の中だからこそ、それぞれの美術館の所蔵作品からそのパワーをもらいたい。