『ベルサイユのばら』50周年:池田理代子が描いた「女性の自立」と「不変の愛」が現代も色あせない理由
フランス革命前後のベルサイユを舞台に、男装の麗人オスカルやマリー・アントワネットらの激動の生涯を描いた漫画『ベルサイユのばら』が、今年、連載開始50周年を迎える。アニメ化はもちろん宝塚歌劇団により舞台化もされた不朽の名作は、現代もなお新たな読者を獲得し続けている。連載が始まった1972年は日本で男女雇用機会均等法が施行された年。原作者の池田理代子が「自立した女性」を描いた事情と時代背景とは。
「恋の物語」にとって一番大切なものはなにか? それは「障害」だ。考えてもいただきたい。なんの障害もない二人が出会って恋に落ちたとしたら? いきなりハッピーエンドで話が終わってしまう。
だから障害はとても重要で、それもできれば「本人の踏ん切り」といったパーソナルなハードルではないほうが、より大きな普遍性を持つことになる。それゆえに、対立する家同士の若い二人が恋に落ちた「ロミオとジュリエット」が、永遠の古典となるのだ。
あれは教皇派、皇帝派として対立するモンタギュー家とキャピュレット家の物語だった。日本史でいえば南北朝時代の、宮方と武家方のような構図。『機動戦士ガンダム』であれば「アムロとララァの出会いがそれにあたる」といえば、わかりやすいかもしれない。しかしそうした伝統的な恋の物語が、実は現代では成立しづらくなっている。2013年に大ヒットした『アナと雪の女王』でも「真実の愛」は男女間ではなく姉妹にあった。ディズニー作品ではそもそも恋愛要素がない作品がつくられるようになり、世の中もそれを肯定的に評価している。
日本でも事情は同じで、現代では19年にドラマ化された漫画『凪のお暇』のように、いわゆる「王道」とはまた異なる恋の物語が支持される。ネットフリックス作品『愛の不時着』は王道恋愛物語としてヒットしたが、あの作品の恋にはご存じのとおり「北と南の民族分断」という大きな障害が立ちはだかっていた。
考えてみればそれも当然だ。現代社会はミルトン・フリードマンが唱えた「選択の自由」を旨としてデザインされてきた。だから恋の選択も自由。どんな悩みも「好きな人とつきあえばいいんじゃない?」という結論になり、そもそもハードルが成立しづらい。
こうした状況について社会学では、現代社会における「恋愛表現の不可能性」と呼ぶ人もいる。結果、現代の恋の物語はしばしば病であったり事故による記憶喪失などが描かれることになる。二人が同じ時間にいなかったりもする。またその一方で映画『燃ゆる女の肖像』や『キャロル』のように、偏見が根強く、また自立が困難だった過去の時代に題材を求めた作品にも名作が多い。
現代からすると、過去の社会は自由が制限され、厳しかった。21世紀ならばネットをにぎわせるだけのスキャンダルも、江戸時代であれば重い罪。ライフスタイルの多様性も認められない。
そうした中でも、もっとも厳しい自由の制限は「身分制度」ではないだろうか。「天は人の上に人をつくらず」という福沢諭吉の言葉は有名だが、かつては西欧も、そして日本でも身分制度が存在した。生まれたときから貴族は貴族、平民は平民。その「格差の壁」はどんなに努力をしても乗り越えることができない。
しかし1789年のフランスで、その壁を打ち壊すために人々が立ち上がった。「フランス革命」だ。1972年に「週刊マーガレット」(集英社)で連載が開始され、今年で50周年を迎える池田理代子氏の作品『ベルサイユのばら』は、その「フランス革命」の激動の歴史を描き、マンガ史上に気高く咲いた名作である。