「知っているようで知らない沖縄」に写真で近づく。伊波リンダ インタビュー
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」で展示されている。
1979年沖縄県うるま市生まれの伊波リンダは、いまも郷里に住んでいる。ハワイ生まれの沖縄県系2世である父はかつて米軍基地に勤務していた。母は北マリアナ諸島のサイパンに近いテニアン島生まれ。母の両親は戦前の沖縄からの移住者であり、第2次世界大戦中にはテニアン島での激戦をくぐり抜けている。
「父と母は沖縄で出会って一緒になり、姉はハワイで生まれたのですが、母が寂しがったため沖縄に戻り、兄と私は沖縄で生まれました。姉と兄は幼少期にアメリカンスクールに通っていたこともありますが、私は小中高と沖縄の学校でした。父はほとんど英語しか話せず、私は英語をあまり話せなかったため、家では、英語、ハワイ語、日本語、少し覚えたウチナーグチ(沖縄語)の4つの言語を交ぜて使っていました」。
そうした多様なルーツ、環境で育った伊波は、沖縄の日常をどのような距離感で撮っているのだろうか。2023年1月、伊波が住む沖縄を訪ねた。空港から国道沿いに米軍基地が延々と続き、「復帰50年」を過ぎても、日米安全保障条約や日米地位協定が障壁となり、戦後処理の課題が未解決であることを実感する。しかし再開発が進む那覇市街地を歩いていると、住宅街に残る戦跡などに気づきにくい。伊波の案内で、彼女がふだん撮影している沖縄市(コザ)に移動し、古くからあるタコス屋で話を聞いた。
静謐な風景に記憶が宿る
──「六本木クロッシング2022展」の展示作品《searchlight》(2019-22)は、ひとつのタイトルで、写真、コラージュ、映像の13点で構成されていますね。沖縄固有の風景もあれば、ほかの地域にもありそうな普遍的な風景もあります。
伊波
はい。沖縄戦最後の激戦地と言われる糸満市摩文仁(まぶに)にある「平和祈念公園」には、国籍や軍人、民間人にかかわらず、つまり敵・味方の区別なく、20万人余を超える戦没者すべての人々の名を刻んだ刻銘碑が並んでいます。展示の最初にある映像作品は、その「平和祈念公園」で6月23日の「慰霊の日」とその前夜に、上空に向かって照射されるサーチライトなどを撮影したものです。サーチライトの強い光線は、戦時中は夜間に軍事利用されていたと言われているのですが、6月23日の慰霊の日には、慰霊・平和の象徴である全戦没者の標柱に見立てて、日本・アメリカ・イギリス・朝鮮半島・台湾を表す5本の光で天と地を結ぶように、前日の夜から「平和の光の柱」として照射されます。
この光の粒子のようなもの、なんだかわかりますか? 近づけないので、望遠レンズで毎年撮っているうちに、誘蛾灯のように集まる虫や、風に舞う潮がサーチライトにぶつかって、そう見えているのだとわかりました。蛍のような不思議な光です。
──
さらに、夜の海面に揺らめく光が美しいと思って見ていると、カメラが次第に岸辺に近づき、辺野古新基地建設の工事の光であるとわかります。反対運動があっても着々と進んでいるんですね。見えないものまで見ようとしているか、見たいようにしか見ていないのではないかと問われているような複雑な気持ちになります。この草木が生茂る野山の写真は、ありふれた風景に見えますが、何か歴史的な背景がある場所でしょうか?
伊波
沖縄戦で亡くなった多くの戦没者の遺骨がいまもなお眠っていると言われている場所です。南部一帯を歩いているときに、いくつかの工事現場にたどり着きました。後日、南部で採取された土砂が名護市辺野古の新基地建設に使用されるのではないかという報道を知りました。遺骨収集をしている具志堅隆松さんを中心とした市民グループや、語り部の石原絹子さんをはじめ、沖縄戦を体験した方々などから反対の声が上がっています。この写真に写っているのは、その土地に再び生えてきた植物なんです。
──
再開発や軍事に使われるなんて、命を冒涜していますね。東京の街の下にも大空襲の遺骨が眠っているということも想像に難くない。何よりも、人間の歴史を凌駕する自然の力に圧倒されます。遺骨を守って繁茂しているようにも見えます。
伊波
この写真の女性が石原絹子さんです。キリスト教の牧師で語り部をされています。私が糸満市を撮るようになったのは、「沖縄戦の際、避難した糸満市米須で爆撃に遭い、家族を次々と亡くし、7歳で孤児になった」というお話をお聞きしてからです。
この作品はコラージュで、うるま市勝連のホワイトビーチフェスティバルで撮った軍用機のドアの部分に、米兵が通うバーの落書きを重ねています。
「沖縄」と「基地」を行き来する
──作品が生まれた経緯をうかがって、いずれも見え方が変わってきました。伊波さんが写真を始めたきっかけを教えてください。
伊波
映画が好きだったので映画のポスターをつくる仕事がしたいと思い、その入り口として写真を始めたんです。子供の頃は、父に基地内の映画館に連れて行ってもらっていました。高校時代は友人と、北谷の映画館や(建て替え前の)那覇の桜坂劇場によく通っていましたね。
また、私の叔母たちは沖縄のうたを歌っていて、練習している音楽事務所に行ったときに、写真が好きな作曲家の普久原恒勇さんから「使いこなせたら譲ってもいいよ」と言われてカメラを譲っていただきました。そのカメラで、4人の叔母たち「フォーシスターズ」の楽屋裏の様子なども撮っていました。
──沖縄について意識的に考え始めたのはいつ頃ですか?
伊波
やはり高校生の頃です。倫理の授業で基地問題について感想文を書いたことがあって。父が基地で働いているからといって書きにくいわけではないのですが、沖縄のことを知っているようで知らないなと思ったんですね。子供の頃から「沖縄」と「基地」の両方を行き来しているなかで、自分は沖縄とまだ距離があるんじゃないか、写真を撮りながらもっと近づいていけたらと考えるようになりました。
当時、ヒロミックスさんやホンマタカシさんなどの写真集を友人に見せてもらったりしていて、その友人と、身近な風景を撮影していました。基地も、目の前にある身近なものだからこそ撮っていたんです。沖縄には戦争によって引き起こされた問題が否応なく残り続けている。それでも、私が生まれたこの場所に近づかないとすっきりしないという気持ちですね。
──どのように沖縄に近づいていったのでしょうか?
伊波
それが、最初は人を撮れなくて、ずっともやもやしていました。それで何か別のかたちで表現しようと、2014年からコラージュをつくり始めたんです。基地内のショップで購入した音楽雑誌から、好きなミュージシャンのポートレイトを切り抜き、砂に埋めて撮影しました。《矛盾の中で眠る》(2016)というシリーズで、誰かを傷つけるような意図はありません。
──迷いが吹っ切れてきたのでしょうか?
伊波 そうですね。その頃、沖縄にいるアメリカ人や米軍基地に駐留するアメリカ人を撮影し、《Design of
Okinawa》(2015)というシリーズにまとめました。「沖縄のデザイン」「沖縄はデザインされている」のどちらの意味にも取れます。このコラージュ作品は、2014年に途中まで制作して未完成のままでしたが、2021年に再開して完成させました。1972年の本土復帰、その1年前に基地内の小学校で進級時に配布された印刷物を用いています。沖縄の基地の位置が示されている地図や沖縄の風景のイラスト。その印刷物に、私が子供の頃に好きだった赤いフルーツパンチを基地内のファストフードの赤いテーブルの上に置いて写した写真をコラージュしています。コラージュには、子供の頃に見たものや影響されたもの、色が表れることが多いですね。
──この海の写真も、青が美しいですね。
伊波 金武ブルー・ビーチ訓練場にある海を撮っています。豊かな自然の残るその海に、沖縄の人は開放日にしか入ることができないんです。
──自然のなかに引かれた見えない境界線のようですね。それでも伊波さんは、カメラを構えることで境界の向こう側をとらえようとしているように思います。
伊波
これは、米兵がよく行くストリートで写真を撮っていたときに、若者たちに「撮って」と声をかけられて最初に撮った写真です。ちょっと手が震えてブレてしまったのですが、こんな若い人たちも戦争に行くんだなと思いながらシャッターを切りました。
沖縄との距離を縮めた出会い
──伊波さんは、個人と政治は別だと切り離して考えているんですね。属性で一括りにせず、目の前の人とその都度向き合っているように感じます。
伊波
「人を撮りたい」という気持ちが募っていた2016年に、山の中で初老の男性に出会ったことが転機になったかもしれません。廃墟かと思ったけれど、生活感もあったので、ドアを開けながら声をかけたら、人が寝ていて。壁に赤いスプレーでたくさんの落書きがされていて、家の中に差し込んだ光の中で、おじさんが寝ていました。その光景が忘れられなくて、撮らなかったら後悔するなと思って、翌日から通い始めました。
おじさんは何かトラブルを起こしたらしく、世間から離れて、自分の家ではない空き家に入り込んでひっそりと暮らしていました。ある日、一緒に森に出かけたとき、おじさんは山の色と似ているなと感じ、一体化して見えたことがありました。そのとき、その土地とそこで暮らしている人の色は似ているなと、沖縄の自然の色はいいなと思いました。
おじさんはコンクリートに使う土砂を扱っている現場でたまに働いていました。「これも辺野古に持っていかれるかもしれない。俺のところにお金が回ってくるさ」と言ったことがあって。生きていくために止むをえないという意味だと思いますが、『何言ってんのかっ』と言い返したこともありました。そんなふうに政治的な意見の違いで喧嘩になることもありましたが、いろいろなことを話せる人で。ほかに合う部分もあるから、意見が対立しても縁は切れないんです。友だちでも恋人でも家族でもないけど、撮らせてもらうなかでつくられていった関係でした。いつも私のことを心配してくれて、新聞に私の写真が掲載されたときは喜んでくれて。ヤクザより写真家のほうが怖いとも言ってましたね(笑)。真意は聞かなかったのですが、なんでも撮るからかな。
──写真の暴力性も承知で委ねてくれたのですね。ご自分の写真をどう思っていたのでしょう?
伊波
展覧会(「作家と現在」展、沖縄県立博物館・美術館、2019)が終わってすぐおじさんは亡くなったので、残念ながら展示を見てもらうことはできなかったんです。このシリーズのタイトルは《Nowhere》。「nowhere=どこでもない」と「now
here=ここにいる」の両方の意味を持たせています。おじさんを撮ったことで、ちょっとだけ沖縄との距離が縮まったような気がしました。
──
今後はどんな制作活動をしていきたいですか? また、いま、宮古島、石垣島などの南西諸島で陸上自衛隊のミサイル基地配備が進んでいますが、沖縄の現状に対しても何か思いはありますか?
伊波
難しいことではありますが、写真を通じて沖縄県外の方々にも広く知ってもらい、何かを考える入り口やきっかけになったらいいなとは思っています。また、自身の制作では、これまでの延長線になりますが、もっと沖縄の身近な人や土地を撮っていきたいですね。普通の風景と思われるところでも、ここに生きている人たちにとっては大事な場所。一枚一枚丁寧に撮りたいです。
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声高ではないが、二項対立を溶かすような伊波の表現は、世代や地域を超えて響くのではないだろうか。戦争は日常生活を瞬時にして奪うが、写真には、何気ない風景を永続させる力がある。