岡崎武志×速水健朗 上京物語の変遷
(『中央公論』2023年6月号より抜粋)
――お二人とも地方から東京へ出てこられています。それぞれの上京体験をうかがえますか。
岡崎》僕は1957年生まれで、出身は大阪府枚方(ひらかた)市です。大学卒業後、非常勤で高校の国語講師をしていました。毎年赴任校が替わりながら、教員採用試験を受け続けていたのですが、倍率も高かったので正式な教員にはどうもなれそうにない。そこで思い立って90年3月に33歳で上京しました。
もともと関西の詩人たちが立ち上げた雑誌『ブラケット』を手伝っており、そこで編集や執筆の面白さに目覚めていたので、東京で「文章を書く」仕事がしたかった。まわりからは無謀だと言われましたが、年齢的にもう後がない。どうせダメなら一番やりたいことに挑戦しようと思いました。
上京したその足で、池袋の不動産屋に飛び込みました。とにかく本が大量にあったので2部屋は欲しい。物件は古くて最寄り駅から遠くてもいい。風呂付きで家賃は7~8万円と希望を伝えると、「その条件では東京に住めない」と呆れられました。そこで紹介されたのが、荒川を越えた埼玉県戸田市にあった新婚向けの新築アパートです。最寄り駅はJR埼京線の戸田公園駅。実は上京して最初に住んだのは埼玉で、東京ではありませんでした。
速水》僕は73年生まれでプロフィールは石川県金沢市出身となっていますが、子どもの頃は転々と移っていて、小学校時代は仙台や秋田、中高時代は新潟にいました。92年に大学進学で上京し、墨田区の菊川に住みました。父が先に単身赴任でそこにいたので、転がり込んだのです。その後、父とともに下北沢へ引っ越して、しばらくして一人暮らしを始めます。はからずも東京の東側と西側の暮らしを続けて体験しました。
――その後、引っ越しは?
岡崎》小さな雑誌社に潜り込んだのですが、バブル崩壊の影響から91年秋には雑誌が休刊状態に。給料の遅配も起こり、12月には退社します。
経済的には追い詰められていましたが、「やはり東京に住むべきだ」と思い、一番住みたかった高円寺に引っ越しました。こちらは木造2階建ての大きな一軒家。1階に大家が住み、2階が何部屋かのアパートになっていました。4畳半の洋間と6畳の和室で風呂なし。住所に「○○様方」が付く昔ながらの物件でした。
速水》当時、高円寺という場所へのこだわりはあったんですか。
岡崎》もともとフォークソングが好きで、特に吉田拓郎の「高円寺」という曲に思い入れがあった。何よりJR中央線沿線は阿佐ヶ谷に友部正人、吉祥寺には高田渡と、フォークの人たちがいっぱい住んでいたしね。
速水》フォークシンガーは個々に街を背負っているようなところがありますね。
岡崎》それから結婚して、国分寺に新築の一軒家を買ったので今も中央線ユーザーです。良い古本屋もあるし飲み屋もあるし、もう中央線以外いらんわという感じです。
――速水さんの引っ越し遍歴はいかがでしょうか。
速水》父親と住んでいた下北沢の物件を出たあとも、世田谷代田や駒場東大前など、周辺を転々としていました。自然と下北沢が核になっていましたね。
地方出身者にありがちな例ですが、僕はもともと田中康夫の小説やエッセイの『ぼくだけの東京ドライブ』とか、泉麻人の『東京23区物語』、『BRUTUS』の東京特集などで、東京の地図が長年の妄想上で完成していたタイプなのですが、実際に東京で最初に住んだ墨田区の菊川だと最寄りの繁華街は錦糸町で、かなり勝手が違いました。六本木、青山、表参道、代官山といった文化圏とは切り離されている。電車で行くにも思いのほか遠いし、つながっている場所というイメージすら感じられなかった。岡崎さんは著作で「山手線の表と裏」と言い表していましたが、僕も東京の右と左は全然違う街だと来てからわかりました。
岡崎》僕は60年代から70年代が青春期にあたり、東京といったらもう光り輝く場所でした。音楽も文学も。この前、大江(健三郎)さんが亡くなったけれど、大江さんのほか開高健、石原慎太郎などや、第三の新人と呼ばれる作家たちが描く舞台はほとんど東京だったんですね。上京する前に、文学を通して先取りで東京を体験したところはあるかな。
速水》そこでの東京は、渋谷や新宿などのジャズ喫茶とかのイメージでしょうか。
岡崎》ジャズ喫茶は大学のあった京都にも多くあったんですよ。ただ、東京はジャズ喫茶はもちろん、映画館、名画座、定食屋、とにかく何でもあるよね。しかも有名人がそこら中に歩いている。
速水》地方にいると、「東京へ行けば有名人に会えるかも」といった感覚は持ちますよね。ちなみにどなたを目撃されましたか。
岡崎》上京前、東京に遊びに来た時に新宿の紀伊國屋(書店)で村上春樹を見かけました。ちょうど『ノルウェイの森』が出たくらいだから80年代の後半ですね。「おお、村上春樹や」と思って見ていたら、早川のポケミス(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)の棚の前で立ち止まっていた。「いかにも」と思うたね。さすがに声はかけられへんかったけど。それが一番印象に残っていますね。