「西南戦争などの士族反乱の先駆け」謎の久留米藩難事件に迫る…福岡市の歴史作家が考察本
久留米藩難事件は、山口藩で起きた旧奇兵隊など諸隊の反乱に関わった疑いをかけられた同藩士の大楽源太郎らが、久留米藩に身を寄せたことから始まる。久留米藩では、尊王派の藩士や庄屋が中心となって大楽らをかくまった。藩内では大楽とともに政府転覆を図ろうとする動きもあったが、政府の厳しい追及を受け、1871年(明治4年)3月に大楽らを殺害した。
事件に関わったとして、同藩だけでなく、全国で260人以上が処分されたという。福岡県久留米市寺町の遍照院には、事件で殺害された大楽らを葬った「耿介四士之墓」や、久留米藩の犠牲者の墓などがある。
浦辺さんは、2017~18年に読売新聞福岡県版で「維新秘話 福岡」を連載。その時の取材で事件に関心を持ち、同市や柳川、筑後、小郡の各市史で事件に関する記述を読み比べたが、政府が仕組んだ「久留米藩つぶし」と記した市史もあり、「統一した見解がなく、歴史認識に偏りがある」と感じ、自ら調べ始めたという。
著書は四六判、224ページ。大楽をはじめ、大楽らを保護し、最後は事件の責任を取って処刑された久留米藩士の小河真文や、事件を主導したとして捕らえられ、獄死した医師の古松簡二らについて解説。久留米市を中心に事件の顕彰碑や詩碑などが多く残っていることなども紹介している。
小河の子孫に当たる小河恭子さん(60)(大木町)は「我が家ではこれまで、真文がクーデターで処刑された事件として暗いイメージで語られてきた。今回、藩を守る責任を背負って犠牲になったと書いてもらい、真文も喜んでいると思う」と話す。
久留米藩難事件について浦辺さんは、「維新のやり直しを求める全国的な反政府行動であり、その拠点が久留米だった。その割に評価が低く、明治新政府によって闇に葬られた事件といえる」と指摘している。