荒野で世界が蜂起する。椹木野衣評「生誕100年 松澤宥」展
前回取り上げた長野県中川村でのAI美芸研による展覧会の際に知り合った、同じ長野県松本市のマツモトアートセンター、諏訪の「スワニミズム」の方々とのつながりで、「生誕100年 松澤宥」展をより立体的に見ることができた。同展が調査、構成ともに行き届いた展覧会であるいっぽう、松澤が1970年の東京ビエンナーレ(第10回日本国際美術展「人間と物質」、東京都美術館、コミッショナー=中原佑介)に出品(?)した《私の死》のマツモトアートセンターでの再構成は、回顧にとどまらない挑戦的な展示であったし、下諏訪町での「松澤宥 生誕100年祭」は、松澤の生地で、生涯にわたりこの地に腰を据えて活動した松澤と土地とのつながりを多角的に検証するものであった。
美術館での展示は内容の充実に比べ会期が短く、また巡回もなかったのを惜しく感じる反面、長野県各所で開かれた関連企画と、前後して東京で見ることができた2ヶ所での展示(なるせ美術座「松澤宥 壊色論」展、東向島
北條工務店となり「Ψの庭・Φの夢」展)と併せ、過去と現在、そして松澤をめぐるこれからを結ぶ広がりをはらむ機会になっていたように思う。
今回、これらのすべてを通じて浮かび上がってきた松澤の仕事への新たな理解として私自身が強く感じたのは、あまりにも有名な1964年6月1日の深夜に夢のなかで聞いたという「オブジェを消せ」という正体不明の声をめぐる再解釈である。この「命令」は、ごく一般的にとらえるならば、直前まで松澤が発表してきた一連の「プサイ函」に代表される「オブジェ」や、そのもととなる「絵画」を構成している作品の物質性を消して、非物質的な意味の次元に重心を移すことを意味する。そこから、日本における概念芸術(コンセプチュアル・アート)の創始、もしくは松澤の言葉を借りれば「観念芸術」の誕生として理解することができるし、度々そう扱われてきた。
だが、ことはそれほど単純ではない。まず念頭に置くべきは、非物質性に重心を据えるのは、松澤の生涯において、別のかたちを取りつつも繰り返し強調されてきたことで、松澤の作風と決定づけられる唯一の特異点というよりも、ある種の反復性の頂点である、ということ。
というのも、大学で建築を学ぶことから出発しながら、松澤はその卒業式後の謝恩会(1946)で「私は鉄とコンクリートの硬さを信じない。魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい」と挨拶をして聴く者を驚かせている。が、これは圧縮すれば「オブジェを消せ」とほぼ同義である。また、渡米中の1957年に、深夜にラジオから流れてきた超心理学や死後の生命についての連夜の放送に衝撃を受けた松澤は帰国後、「しかし未来のいつか人間は、コミュニケイションについてすべてを知りつくしてしまい、コミュニケイションする必要がなくなり、コミュニケイションしなくなり、世界と宇宙は静まりかえってしまうのだろうか。それをニルヴァナというのであろうか」と記している。これもまた「オブジェを消せ」とほぼ同じことを語っていると考えられる。先に「オブジェを消せ」は唯一の啓示ではなく、松澤の生涯において反復の相にあると書いたのは、これらのことによる。
この「オブジェを消せ」において大きな意味を持つと思われるのは、睡眠中の出来事であっても、夢のように視覚的なイメージを伴うものではなく、ある種の「音声」として聞き取られている、ということである。ラジオ体験も聴取の体験であったように、また卒業式後の謝恩会での挨拶がやはり語りによって表出されているように、いずれも、自分を含む何者かによる視覚的イメージを伴わない「言語」と、それを伝える「声」(内声を含む)の形態として現れている。
つまり「オブジェを消せ」とは、形式としては先進的な概念芸術というより、「詩」とその「朗読」(黙読を含む)にきわめて近いのだ。そして詩は、松澤が建築から逃れ、最初に手にすることになる表現であった。ということは、松澤が自分の内なる声として聞いた「オブジェを消せ」とは、端的に言えば「詩に還れ」ということではなかったか。実際、初期の松澤による詩を改めて読み返すと、詩であると同時に、のちに確立されたと言われる「観念芸術」として受け止めてなんの不自然もないもの(とりわけ1949年の詩集『地上の不滅』)がある。
もしそうなら、松澤が辿った軌跡について語るとき、「建築→詩→記号詩→絵画→オブジェ→観念芸術(いわゆるインスタレーションやコレクティヴィズム、晩年のパフォーマンスを含む)」という美術/アートをめぐる一種の「進歩史観」自体に、何より批評的な疑いを向ける必要がある。私の考えでは、松澤は様々な媒体、表現を通じて、つねに最初期の「詩」に還ろうと試みていた(ただし都度の還り方が異なり、それが個別の変遷となる)。では、なぜ松澤はそこまでして「詩に還る=オブジェを消す」必要があったのだろう。
私がここで示したいのは、松澤にとって戦争が何を意味したか、ということだ。理系の建築学科に在籍したため兵隊には取られなかったが、同じ郷里の級友たちは相当数が戦場に赴き、命を落としている。松澤は生涯にわたりその失われた友たちが忘れられなかったし、また忘れることもなかった。ある意味、1970年の東京ビエンナーレでの《私の死》は、「かれらの死」に「私の不死(心臓の鼓動による生存確認)」を重ね合わせるための、不可能な追悼の儀式であったのではないか─生命を扱う空っぽになった医院跡を再利用したマツモトアートセンターでの再現展示は、このことが「気配」として非常に強く伝わるものとなっていた。
そう考えたとき、敗戦直後の1946年に手がけた卒業設計「富士見高原芸術家村計画」(これもまた70年代初頭に松澤が郷里で活性化させることになるコミュニズムを先取りする側面がある)に付随した(松澤の呼ぶ)詩的エッセイ「廃墟・ルインに就いて」に「人間のつくるものはやがて亡びるのだ。人間も亡びるのだ」と書きつけたのも、空襲で焼き尽くされた焦土=松澤の言葉では「消滅」が念頭に置かれていたと推察することができる(このことと建築家=反建築家である磯崎新による「未来都市は廃墟である」の原点にやはりヒロシマという焦土があることの共通点は興味深い)。
私は松澤の仕事を彼の過去、原点に集約しすぎだろうか。いや、そうは思わない。松澤の作品には終始、死や消滅への予感がつきまとったし、そもそも死や消滅は原点にはなりえない。その点ではいわゆるコンセプチュアル・アートとの隔たりは明らかだ。また観念芸術といっても、そこには密教(マンダラ)や彼岸への志向が随所に見られる。このことは下諏訪の地勢学に通じるスワニミズム有志らによる諸研究が明らかにしたように、松澤が展覧会の場所で聖地である山の水源─例えば「荒野におけるアンデパンダン
’64展」での「七島八島高原ツンドラ地帯」─や、鑑賞者として諏訪湖をはじめとする非人間まで想定していたことにも表れている。としたら、物質的な意味ではもうこの世に存在しない死者が鑑賞者に換算されていてなんの不思議もない。
あれほどの国際的ネットワークがあるにもかかわらず、松澤がついに拠点を移さず、大いに精魂傾けた地元、諏訪での「御柱祭」は、何より消滅と再生(=たてかえ)の儀式である。松澤の代名詞ともなった「プサイ」は、ギリシャ・アルファベットで末尾の「オメガ」のひとつ前を指す。消滅ではなく消滅の直前であること。そこにこそ、松澤の呼ぶ「世界蜂起」への扉があるのではないだろうか。
(『美術手帖』2022年7月号「REVIEWS」より)