セザンヌの名作はここにある。国内美術館で見られる代表作をピックアップ
この理念とセザンヌの作品が、パブロ・ピカソ(1881~1973)やジョルジュ・ブラック(1882~1963)らが進めたキュビスムの理論的支柱となり、アンリ・マティス(1869~1954)やアンドレ・ドラン(1880~1954)らは、セザンヌの色彩による画面の構築に触発されてフォーヴィスムへと進む。
20世紀における絵画表現の二大改革はセザンヌの存在なしにはありえなかった。故に彼は「近代絵画の父」とも称される、ポスト印象主義の代表的な画家のひとりだ。
南仏エクス=アン=プロヴァンス(以下、エクス)の裕福な家に生まれ、父の反対を押し切って画家になることを選んだセザンヌは、パリで印象派の画家たちと交流しながらも一定の距離を置き、故郷での制作を主体に独自の表現を追求した。サロンには一度も入選せず(*)、晩年の個展開催までパリ画壇には知られることがなかったこの画家は、多くの誹謗と中傷を受けながらも、人物、静物、風景と幅広い画題を扱い、一貫して己の目指すものを揺らぐことはなかった。
同じくポスト印象派の画家として挙げられるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)やポール・ゴーガン(1848~1903)の劇的な生涯や作品に感じられる情熱やインパクトに比べて、大きな波乱のない人生や、現代から見ると穏やかで静かにも思われる作品の何に、どこに、次世代の作家たちを魅了し革新へと導くものがあったのか、彼の生涯と国内で見られる作品に迫ってみよう。
モラトリアム青年の夢:画業の道へ
セザンヌは1839年、エクスでのちに銀行家となる父の子として生まれた。セザンヌの父は帽子の行商人から一代で銀行家として成功した実業家で、母は椅子職人の娘。妹のマリーが生まれたのを機に両親は入籍し、その後、妹ローズが生まれる。
何不自由ない裕福な家庭で後継ぎとして育った彼は、ラテン語やギリシャ語もこなす優秀な少年で、良家の子息が通う名門校に進学する。そこで知り合ったのが、後にフランス近代文学の大家となるエミール・ゾラ(1840~1902)だ。ゾラはパリで父を失い、貧しい母子家庭であったことから、エクスではよそ者としていじめにあっていたが、同じ寄宿舎にいたセザンヌは暗黙の了解であったルールを破ってゾラに話しかけ、級友から袋叩きにあったという。翌日ゾラがリンゴを持って見舞いに来たというエピソードも残る。そこに、のちに天文学者となるジャン=バティスタン・バイユが加わり、真っすぐで内気なセザンヌは、青年時代を詩作や絵画制作、自然散策や水泳などをして過ごした。1歳年下の二人との友情は長く続き、ことにゾラは、1858年にパリに移ってからも頻繁に手紙をやりとりし、画家を夢見るようになったセザンヌに多くの激励を送っている。
父の希望で1858年にはエクスの法科大学に進むが、前年から市立素描学校にも通い始めていたセザンヌは画家になることを諦めきれず、勉強に身が入らなくなっていく。彼の芸術的な才を評価していたゾラからは、度々パリで絵の勉強をするべきと勧められるが、決心がつかない。そこには、画家として成功するという理想とともに、失敗したらという恐れ、さらに父の期待を裏切ることへの罪悪感がうかがえる。生来の内気に矜持と怯懦が相まって癇癪にもなる彼の性格は、人嫌いへと発展し、社交の場での問題行動として様々なかたちで表れる。
1861年、セザンヌは大学を中退してパリに向かう。猛反対していた父は実際に失敗を経験させたほうがよいと判断したらしい。エコール・デ・サール(国立美術学校)の受験は失敗し、私塾のアカデミー・シュイスに通うことになるが、ここで、カミーユ・ピサロ(1830~1903)をはじめ印象派の画家たちに出会う。とくにゾラとは連れだってルーヴル美術館などを訪れ、ベラスケスやカラヴァッジョの作品に感銘を受けたようだ。
しかしながら、結局わずか半年でセザンヌは挫折し、ゾラが引き止めるのも振り切って故郷に戻る。父の銀行に勤めながら地元の美術学校に通うことになるが、やはり勤めには熱が入らず、翌年ふたたびパリへ。父親も諦めて、以後、彼は父から仕送りを受けながらパリとエクスを往復して制作を続ける。言い出したら聞かない頑固さ、自己顕示欲が強いのに臆病で、何かあると実家に助けを求めるお坊ちゃまのモラトリアム気質は、この面倒な親友を気長に説得し続けるゾラの書簡からも読みとれる。
この頃のセザンヌは、暗く厚い絵具で、多分に空想的な要素のある作品を遺している。神話や聖書のエピソードのほか、暴力や略奪、誘惑や凌辱などセンセーショナルなテーマも多い。ロマン主義的と位置づけられる初期作品は、日本ではセザンヌの画業を通じて作品を所蔵するポーラ美術館の《宗教的な場面 》(1860-62)で確認できる。
色彩への目覚め:印象派との出会い
セザンヌはパリで、クロード・モネ(1840~1926)やピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)とも知り合い、ドラクロワやクールベ、マネに影響を受けながら、アカデミー改革の意識を持ってサロンに出品し続ける。しかしながら、ゾラによる展覧会評での擁護も効果なく、他の印象派の仲間たちが入選した1868年のサロンでも彼の作品が評価されることはなかった。
1869年には、後の妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と出会い、1872年には息子も生まれるものの、厳格な父を恐れて、同棲していることを隠し続けた。絵は評価されず、父からの仕送りのみでの生活は厳しかったようで、度々ゾラに借金を申し込んでいる。
パリでの制作では、師とも、親友ともなったピサロとの交流が注目される。ピサロから印象派の筆触分割の描法と戸外での制作を学んだことで、画面は次第に明るいものになっていく。若手の画家たちに理解のある絵具屋「タンギー爺さん」ことジュリアン・タンギー(1825~94)も紹介された。タンギーは早くからセザンヌの作品を高く評価し、代金のかわりに置いていかれた作品は、この店でゴーガンやゴッホの目に留まったという。この頃、セザンヌが移住したオーヴェール=シュル=オワーズで制作した作品のうち、上原美術館に静物画が、ポーラ美術館に風景画が収蔵されている。ピサロの「三原色とその混色だけで描きなさい」という助言を受けつつ、画面構成にも留意していることが感じられる。
1874年、のちに「印象派展」と呼ばれることになる展覧会に3作品を出品。モネを筆頭に世間からは酷評されるが、このときの1点《首吊りの家》(1872、オルセー美術館蔵)はコレクターに買い上げられる。
その後、第3回印象派展(1877)には油彩13点、水彩3点を出品。ここには肖像画、風景画、静物画、水浴図、物語図など、セザンヌが扱う主題が揃っていた。いずれも印象派から学び取った明るい彩色ながら、彼の意図は、光や空気をとらえることよりも、目の前にある物や風景の実態をいかにとらえ、画面上に構築するかにあった。
この時期に制作された作品は、アーティゾン美術館やポーラ美術館などで確認できる。アーティゾン美術館が所蔵する《鉢と牛乳入れ》(1873~77頃)は、初期の静物画に位置づけられるもの。セザンヌはものを自由に配置して画面を構成できる静物画を好み、晩年まで多く描いている。ここでは、テーブルの左右が見切れており、背景は色面が重ねられて奥行きも定かではなく、置かれた器も、画面の安定のために変形されている。
ポーラ美術館の《アントニー・ヴァラブレーグの肖像》は、厚めの絵具にスピード感のある筆運びで同郷の作家・批評家でゾラの友人を浮かび上がらせる。背景のグレーが耳元や肩にも入り込んでいるのに、不自然さはない。
形態と空間の構築:印象派を離れて
セザンヌの実在感と独自の画面構成の追求は、移ろう光を追い、対象が曖昧になっていくこともいとわない印象派の手法とは相容れないものとなっていく。彼は第4回以降の印象派展に出品することはなく、ピサロ、モネ、ルノワールたちとの交流は保ちながらも、制作の地を故郷エクスと、普仏戦争時(1870~71)に徴兵を逃れて家族と暮らしたエスタックに移して、パリ画壇に知られることなく活動する。
国内で見られる風景画には、《マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む》(1877-79、吉野石膏コレクション)や、《1879~82、プロヴァンスの風景》(ポーラ美術館蔵)、《ポントワーズの橋と堰》(1881、国立西洋美術館蔵)がある。
セザンヌの作品の特徴である、微妙に色の異なる長方形の筆致(ストローク)を様々な角度で重ね、幾何学的な形態を積み上げて画面を構築する描法を確認できるだろう。
静物画では《りんごとナプキン》(1879~80)をSOMPO美術館が所蔵する。丁寧な筆致が、左から差し込む光のなかにテーブルの上のリンゴとナプキンを描き出す。一見無造作に置かれたように見えるリンゴの転がりそうな気配をナプキンが安定させ、ナプキンは背景に描かれた植物のような文様と呼応して画面に動きを生み出している。周到な配置と色彩がもたらす心地よさを味わいたい秀作だ。
この時代の肖像画では、横浜美術館の《縞模様の服を着たセザンヌ夫人》は見ておきたい。セザンヌは身近な人物をモデルにした作品を多く遺しており、妻オルタンスもたびたび描いた。妻への情感よりも、その身体のボリュームと存在感を画布にとどめようとする画家の意識が強く感じられるだろう。
そして、生涯に絵画、素描、版画などを含め、200点以上を制作したとされるテーマが「水浴図」だ。男性群像と女性群像があるが、ポーラ美術館と大原美術館には、それぞれ4~5人の裸婦を、ピラミッド型に並べた木立の中に配置した作品が収蔵される。セザンヌは、このテーマに画業の初期から取り組んでおり、最初期の作品もアーティゾン美術館で見られる。ルノワールが描いた自然のなかで憩う裸婦の牧歌的な情景とは異なり、画家の意識が自然と人物とをいかに画面に配し、構築するかにあったことを感じられるだろう。
最晩年に大作《大水浴図》(1900~06、フィラデルフィア美術館蔵)として結実するそれらの彫刻的とも言えるアプローチは、後進の画家たちを刺激し、マティスやドランはすぐさま同じテーマに取り組んでいる。のみならず、マティスとピカソは実際にセザンヌの「水浴図」の作品を所有し、ドランは複製画をアトリエに置いていた。
独自のスタイルの確立:自由な制作環境のもとで
17年間の同棲を経てオルタンスと結婚した1886年の秋には、父が死去する。莫大な遺産を相続したセザンヌは、以後、経済的な不安なしに制作に没頭できる環境を手に入れる。
新たに故郷のサント=ヴィクトワール山をモチーフに加え、自由な制作に励むが、やはり画壇にはなかなか理解されなかった。写生に向かうセザンヌは地元の子供たちから石を投げられたとも言われている。
しかし、新しい表現を求めるパリの若い芸術家や批評家からは次第に注目されるようになっていく。孤独ながら充実した制作活動から生み出された各ジャンルの秀作も国内で追うことができる。
人物像では、ポーラ美術館が所蔵する傑作《アルルカン》(1888~90)とアーティゾン美術館の《帽子をかぶった自画像》(1890~94頃)は見逃せない。1880年代から90年代初頭、セザンヌは「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」などを描いた一連の人物画の連作に取り組んでいる。ポーラ美術館の《アルルカン》は、アルルカンを描いた4点のうちの1点で、モデルは息子のポール。赤と黒の菱形模様の衣裳を着た彼の顔はマネキンか仮面のように簡略化され、画面の人物を普遍的な存在にしている。複雑に多色が混ぜられたグレー系の壁と、オレンジがかった床のなかで人物の存在が際立つ。一歩踏み出したその足と頭部が見切れていることで、画面はたんなる人物画にはない動きを獲得している。
アーティゾン美術館の《帽子をかぶった自画像》は、生涯で30点以上の自画像を描いたという彼の後期の一作。画家としての自負と不安がないまぜになったような眼と、絵具がのせられていない余白が印象的だ。この「塗り残し」は画家が意図したもの。セザンヌは後年になると、この塗り残しを効果的に用いるようになる。これもまた、画壇で批判の対象になった、彼の新しい表現方法だ。セザンヌの作品ではそこにも注目したい。
静物画では、ポーラ美術館が所蔵する2点を取り上げた。いずれも彼の静物画のひとつの到達点を教えてくれる秀作だ。《ラム酒の瓶のある静物》(1890頃)では、よく見ると、色鮮やかな果物が下に敷かれた布とともにテーブルから滑り落ちそうだ。その布により分断されているテーブルの縁は、左右がつながらない。テーブルや果物の皿はやや俯瞰して描かれるが、ラム酒の瓶は横からのアングルで描かれ、この直立が画面を安定させている。左にある青い果実や瓶の口には、背後の壁とともに塗り残しが活かされて、画面に軽やかさをもたらしている。
《砂糖壺、梨とテーブルクロス》(1893~94)も然り。実際には平面であるはずのテーブルが画面では斜めに傾げ、果物はそのまま転がり落ちていきそうだ。それを白く輝く砂糖壺が、かろうじて画面に押しとどめている。
セザンヌは、三次元の世界を二次元で表すのに、それまでの遠近法にのっとった空間表現を放棄し、自身の感覚に従って色、形、構図を組み立てる。こうした色彩や筆触の効果や多視点の導入が、マティスやピカソたちに多大なインスピレーションを与えていくのだ。近年、東京国立近代美術館の所蔵となった《大きな花束》(1892-95)にも、その感覚がいかんなく発揮されている。
風景画では、この頃からモチーフとするようになったサント=ヴィクトワール山を描いた一作《ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山》(1892-95)が横浜美術館に収蔵されている。このほかに大きな二本の木を通して奥へと広がる風景を描いた《曲がった木》(1888-90、ひろしま美術館)や水面に反射する木々がその湿気すら感じさせつつ、鏡像か抽象画のようにも見える水辺を描いた《水の反映》(1888-90頃、愛媛県美術館)もおすすめだ。
パリ画壇への凱旋:若手芸術家からの思慕
前衛的な画家や批評家がセザンヌについて言及する機会も増え、1895年、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ピサロの勧めもあってセザンヌの個展を開催する。このときの評判は芳しくなかったものの、セザンヌの才能を認めたヴォラールは、専属契約を結ぶために1年で115回も彼のモデルを務めたという。
対象の本質をとらえたいセザンヌは、リンゴを描けばそのリンゴがだんだん傷んでいくほどに遅筆だった。それは人であっても変わらず、モデルが動くと癇癪を起したため、妻子もかなり苦労させられたという。ヴォラールも居眠りをして姿勢を崩したときに、「リンゴのように動いてはいけないと言っただろう。リンゴは動かない」と怒鳴られたそうだ。
1898年にはヴォラールの画廊で2回目の個展が開催され、翌年には第15回アンデパンダン展に出展。1900年のパリ万博の企画展「フランス美術100年展」に印象派の画家たちとともに出品したことを機に、様々な展覧会に参加するようになる。相変わらず一般的な理解は得られなかったが、こうした機会を通して、ナビ派のモーリス・ドニ(1870~1943)やエミール・ベルナール(1868~1941)をはじめとする若い芸術家たちを魅了した。
セザンヌの到達点:20世紀に遺したもの
晩年のセザンヌは、エクス郊外にアトリエを新築し、そこで《大水浴図》の制作に注力しつつ、ほかにも多くの作品を生み出した。朝6時から10時半までアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食を摂るとすぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日々を繰り返していたという。
1906年、67歳のセザンヌは野外制作で雷雨に打たれたことがきっかけで体調を悪化させ、その7日後に自宅で息を引き取った。翌年には、サロン・ドートンヌの一部としてセザンヌの回顧展が開催され、油彩画を中心とする56点が展示される。以後、その評価は急速に高まり、ユーロ導入直前の最後のフランスの100フラン紙幣には、リンゴの静物画とともに彼の肖像が描かれるまでになった。
最晩年に彼が到達したものは、アーティゾン美術館が所蔵する《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904-06頃)に見出すことができるだろう。
愛してやまなかった故郷の山を青と緑の色層のなかに描き出した一作には、特徴的なストロークと幾何学的な建物、そしてその奥に積み上がるようにそびえるサント=ヴィクトワール山が、夢の情景のようでありながら、確固たる存在感をもって見る者を魅了する。それはまるで青いハーモニーを眼で聴く体験にも近い。
セザンヌは、印象派に学んだ色彩はそのままに、そこに描かれるものの形や量感、それらが構成する空間を画面上に表現することを目指した。それは、対象をたんに写すのではなく、目の前にある自然や人体、静物から自身の「感覚」がとらえたものを視覚化する試みであり、彼のスローガンとなった「感覚の実現(レアリザシオン)」は、視覚的印象と自己の認識を知的営為を通して統合し、「絵画」として構築、表現することだったのだ。
幼少期からの頑固さは制作態度においても一貫しており、プライドと臆病に揺れ動きながらも、その追求をやめることはなかった。生活のために絵を描く必要に迫られていなかったという点で環境面で恵まれていたとしても、新しい絵画表現の可能性を様々に模索し、追求し続けた孤高の制作は、だからこそ、20世紀の絵画表現に様々な示唆を与え、受け継がれ、展開していくのだ。静かだが大きな改革者セザンヌがもたらした革命を、いまいちど作品のなかに探ってみてはいかがだろうか。
*──1882年、セザンヌは《L・A氏の肖像》(《レヴェヌマン」紙を読むルイ=オーギュスト・セザンヌ(画家の父)》、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)でサロンに入選しているが、友人を通じた審査員特権(自分の弟子を一人無条件に入選させられる)によるものだった。