『鬼滅の刃』が能 狂言に。野村萬斎と木ノ下裕一が作品に込めた思いを語る
能狂言という、あらゆる要素をそぎ落とした抽象的な芸術表現様式で、社会現象となったあの漫画を舞台化するという。手がけるのは、狂言界の絶対エースにして優れた演出家でもある野村萬斎(演出・出演)と、歌舞伎を歴史的状況を踏まえた多角的な視点でとらえ直し現代に置き換える、精密なテキストレジ(上演に応じて脚本の手直しを行うこと)で名高い木ノ下裕一(脚本)。古典芸能を現代人に響かせる術において突出した才能をもつ二人は、『鬼滅の刃』のどこに、能狂言との接点を見いだしたのだろう。
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来る7月に「能 狂言『鬼滅の刃』」が上演される、東京・銀座の観世能楽堂にて。
(左・野村萬斎)シャツ¥26400/ポール・スミス コレクション
ポール・スミス リミテッド
TEL. 03(3478)5600
その他/スタイリスト私物
(右・木ノ下裕一)すべて本人私物
野村萬斎(以下、萬斎) 変な話なんですが、僕がこれまで関わってきた映画やテレビドラマの時代設定は、平安時代(滝田洋二郎監督『陰陽師』)とか戦国時代(黒澤明監督『乱』)から、大正・昭和(NHK連続テレビ小説『あぐり』等)に飛んで、なぜか江戸時代がないんです。江戸の町人文化は、やはり歌舞伎の方々が担うイメージなのでしょうね。大正モダニズムには少しスノッブなところがあるから、能狂言はその点で、町人中心の江戸とは異なる、その前後の時代と親和性があるのかな。『鬼滅の刃』も大正時代の話ですし、鬼を鎮めるという鎮魂的な要素も、能の精神かな、という気がします。
木ノ下裕一(以下、木ノ下) 僕は『鬼滅の刃』は、一生読まないつもりでいたんです(笑)。というのも、みんなが「鬼滅、鬼滅」と熱く語るのを聞いていて、予備知識もなく何のことだか全然わからない感じが、ふだん古典オタクの自分が、古典を知らない人に内容を説明するときの相手の立場と似ていてすごく勉強になるし、面白かったからなんです。今回お話をいただいて全巻拝読してみると、おっしゃったように「鬼を弔う」という中に鬼側の悲しみがはっきり描かれている点に能らしさを感じたのと同時に、速いテンポ感や心理描写の多さなど、能との違いもかなり感じました。さあどうしようかなと悩んでいたんですが、「刀鍛冶の里編」以降くらいから、僕の勝手な感覚ですけど、吾峠呼世晴先生がおっしゃりたいことは「生きろ!」ということなんだな、と思うようになったんです。死んでいった人たちのぶんまで、引き受けて生きろと。原作の最終回は、炭治郎たちの子孫か転生か、現代に生きる人々の世界になりますが、そうすることで、現代の私たちの平和な暮らしの背後には震災や戦争があり、死屍累々の犠牲があったんだということを示しておられるように感じました。これは、どこか現在の空間にワキ(現世に生きる人物で、主人公・シテの物語を引き出す相手役)がやってきて、かつてそこで亡くなったシテ(不幸な死を遂げた霊であることが多い)の声を聞くという、まさに能の構造ですね。読者がワキということでしょうか。
萬斎 確かに「死にざまから生きるということを学ぶのが能である」と言える気はしますね。能におけるワキはお坊さんであることが多く、生者である観客と死者であるシテをつなぐフィルターの役割を担っている、という言い方をよくします。死者だってかつては生きていたわけで、生の次が死である以上、死に向かっていくのが人間の定めですから、先人の死から何を学ぶのかは重要です。一方で「血(脈)」とか「因果」という、祖先から巡り巡って受け継いでいくものも大きいと思います。僕はよく「縦軸」と呼んでいるんだけれども、時間軸は縦にも流れていて、我々は過去から綿々と続くその縦軸の一点の現在というところにいる。炭治郎も親や師から、いろいろなものを受け継ぎますよね。死は必ず訪れるものですが、同時にそこで途絶えずに受け継ぐのもまた、人間の定めである気がします。
木ノ下 そうですよね、「血(脈)」ですよね。鬼ももともとは人間で、鬼の血を得ることで鬼になるわけですから、これもひとつの「血」のつながりと言えるかと。そうか、それが縦軸ということですね。
萬斎 現代は個人の時代なので、生まれてから死ぬまでの水平軸的に自分を見ていると思うんですが、僕らのような古典芸能の人間には、縦軸も存在するんです。炭治郎も、「ヒノカミ神楽」のように父の炭十郎から引き継ぐ親子の血脈と、鬼殺の剣士として修行で獲得するつながりがあって、両者がらせん状に絡まっているのではないかと。
木ノ下 ああ、なるほど! 面白い。だから『鬼滅の刃』は伝統芸能的なんですね。
萬斎 鬼が灰になっていくところも、ただ無に帰するのではなく、残存するものがありますよね。炭治郎あるいは読者が、鬼の死にざまを見ることで、自分の未来に関わってくることになる何かが残る。生あるものは無になるけれども、それは延々と繰り返されるもの。夜になると跋扈(ばっこ)し、朝陽が昇ると灰になる生命の輪廻的なものを含めての、鬼という存在である気がします。
木ノ下 単純に鬼を滅ぼせばいいということではなく、鬼にもかつて人間だった過去があることが描かれていて、読者にも非常に割り切れないものが残る。勧善懲悪ではないんですよね。そこも、とても能らしいと思います。
萬斎 能には、人間であるはずの自分も、鬼に変わってしまうかもしれないという恐怖や教訓が込められている。鬼=悪と頭から決めつけないんですね。鬼も生きているんだよという、いわばずっと昔から、能狂言はダイバーシティの精神なんですよ。
木ノ下 ほんとですね。キノコだって出てきますもんね(キノコ役が多数登場する『茸(くさびら。流派により『菌』)』という狂言がある)。
萬斎 なぜキノコが大量に生えたかというと、人間のせいかもしれないわけですよ。
木ノ下 人間の勝手な欲望のせい、ということですよね。
萬斎 誰かの欲が何かの抑圧を生み、それによって鬼と化していく人がいる。ほかにも、才能がありすぎておかしくなってしまう人や、生まれがちょっと違うだけで差別を受け、鬼になる人もいる。いろいろなケースがあるのも面白いですね。
木ノ下 多様性は『鬼滅の刃』の大きな魅力だと思います。鬼と人間の境界にいる禰豆子(ねずこ)はその典型ですし、鬼殺隊を支えるなかには、カラスやスズメもいる。鎹鴉(かすがいがらす)の活躍なんて、まさに狂言みたいですよね。
萬斎 能の悲しみに対して、狂言は陽気で、生きていくことの素晴らしさを讃えます。今回「能 狂言」とさせていただいたのも、『鬼滅の刃』には鬼の世界だけでなく、狂言のようにコミカルな面や、生命力の強さも描かれているからなんです。