櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:レンズから覗く人生
「最初は部屋の壁に飾るために、木でアンティークなライフルの模型をつくる予定だったんだけども、インターネットで『アンティーク』って検索したら、一番上にアンティークのカメラが表示されたわけ。画像を眺めているうちに、これはカメラをつくるほうが細かくて面白そうだなと思って、2020年10月から毎日制作を続けて、いま124個目をつくってるの」。
そう話すのは、青森市に暮らす作者の佐藤正美さんだ。佐藤さんによれば、「実際のカメラは全然興味ないし、欲しいとも思わない」という。自分が興味のないものをつくり続けるというその原動力は一体なんなのだろうか、佐藤さんにじっくりとお話を伺った。
佐藤さんは和菓子職人の父のもと、1954年に青森市内で2人兄弟の次男として生まれた。小さい頃から絵を描くことが好きで「画用紙に絵を描いて応募すれば、何かしらの賞に引っかかって表彰された記憶がある」と教えてくれた。小学校の頃は、身近にあった木材を組み合わせて車の模型をつくるなどして遊ぶことも多かったようだ。
そんな佐藤さんの父親は、佐藤さんが小学校1年生のときに、慰安旅行のバスから降車後に心筋梗塞で他界。高校卒業後は、横浜にある自動車会社の工場への就職が決まっていたが、母親から青森に残ってほしいと懇願され、急遽地元で就職先を探すことになった。
その後、勧誘を受けたことを機に、高校卒業後より青森自衛隊へ入隊し、陸上自衛隊青森駐屯地に勤務した。1975年夏には、青森県中津軽郡岩木町(後の弘前市)で大規模な土砂災害が発生したことを受けて、行方不明者の捜索へ行ったこともあるという。定年する54歳まで36年間勤務し、陸曹長として退官した。
「自衛隊を辞めてからは、英会話スクールで送迎車の運転手として65歳まで勤務してたんだけど、外国の先生が休暇中に祖国へ戻ったときに、お土産にミニカーを買ってきてくれたこともありました。私がミニカーを収集しているのをみんな知っていたからね」。
佐藤さんは、小学1年生のときに当時250円だったトヨペット・クラウンのミニカーを買ってもらってから、ミニカーの収集を始め、現在までにおよそ2500台もコレクションしているという。
「小学校の頃はお金がなくって、欲しくて欲しくて買ってるから、すごい思い出があるんだけど、いまは買うとすぐにショーケースへ入れるからね。でも、昔から車は好きでした。実際の車の部品も自分でつくっちゃいますから」。
そう語る佐藤さんが、本格的にものづくりを始めたのは、6年前に遡る。長女が結婚して家を出て空き部屋となった場所に趣味の空間をつくることを思いついた。お手本にしたのは、所ジョージの事務所兼ガレージとして知られる「世田谷ベース」で、あえて日本的なものは置かないようにしているのだという。長女が使っていた5段ボックスの棚を再利用して、本物の空き缶を使って、コカコーラの自動販売機のように加工したり、木を削って色々な欧風のアンティーク風看板をつくったりと、部屋中が佐藤さんの創作物であふれている。
4年前には、部屋の中央にサーキット場の巨大模型を自作。プラモデル等で使った部品の余りを再利用するなどして、安価で制作したというから驚きだ。さらに2021年夏には、20年以上前に譲ってもらったNゲージ鉄道模型30両ほどを展示したジオラマを制作した。「完全に仕事をリタイヤしてからつくろうと思っていたから、2ヶ月で制作した」と当時を振り返る。「車が好きだったから、きっと電車も好きだろうと鉄道模型をたくさんもらったんだけど、じつは電車は好きでないのよ」と笑みを浮かべる。そして部屋の中を自作の作品で埋め尽くしたあと、取り掛かったのが、こうしたカメラの模型制作だったというわけだ。
「最初は1個つくるのに3日でできていた。3日目には次に何をつくろうかという候補をネットで探していたからね。ノコギリなどで木を削る作業は全部外でやるんだけど、作業台もないから、削っている最中に草むらの中に落として、見つからなかったことが何度もありましたね。基本的に天気の悪い日は作業をしないんです。青森は12月から春先までは雪が多く、雨が降ったら作業ができないから、実質的に作業を始めるのは毎年5月から。だから、100台くらいまでは3年ほどでつくったんです」。
驚かされたのは、その制作スピードだけではない。佐藤さんによれば、クラシックカメラなどは、オークションサイト等の出品画像を様々な角度から20枚ほど探し出して、原寸大に拡大印刷し、採寸していくのだという。過去に実寸が分からず苦労したカメラがあったが、それも横に写っていたフィルムを参考にしてサイズを割り出したこともあるという。そしてあるときから、より本物らしさを追求するために、手書きのロゴではなく印刷した紙を貼り付けるようになった。さらに、塗装の際もカメラの質感を追求して、近作は木材だけではなく文具店で購入したプラスチックのブックスタンドをノコギリで削って土台代わりにするなど、そのこだわりは加速しているようだ。
「本物っぽいねと言われるのが何より嬉しいんだよね。でも、もう古いカメラはつくり終えたという感じで、最近はデジカメを制作してるんだけど、つくる側からすると、なかなか欲しい画像が探し出せないんだよね。だから近くの電気屋さんに行って、カタログを貰ってきたりするだけじゃなくて、店長さんにお断りして販売品の写真を撮らせてもらったりしてますね。プラスチックの切り出しから行うようになったから、木を使って制作するよりも3~4倍の時間が掛かるようになったわけ。どうしても、現在は1台つくるのに1ヶ月は必要になっちゃうね」。
カメラ本体のグリップ部分の質感を再現するために、文具店で購入したレザック紙を両面テープで貼り付けたり、カメラのレンズ部分にはプラスチックのビーズケースを使用したりと、近作は本物と見間違えてしまうほどだ。さらに、カメラが趣味の長兄が遊びにきた際に、模型の巻き上げレバーを動かして折ってしまったことを機に、いくつかの模型には巻き上げレバーやシャッターボタンを動かせるような仕掛けも施しているという。それにしても、100台を超えてもなお、制作を続けるその原動力とはなんなのだろうか。
「やっぱりカメラづくりは、細かな部品を見るのも楽しいし、塗装して組み立てるのも楽しいんですよね。だから、途中でやめようと思ったことは一度もないね。誰かに見せるためにつくってるわけじゃなくて、完成したものを棚へ並べて眺めているのが楽しいんです。就寝前にはここへ座って毎晩30分くらいは眺めてますね。数に圧倒されんだべね」。
部屋を見渡してみると、カメラの模型や自作看板、ジオラマの他にも、丸型カラーシールを6000枚ほど貼って描いた絵画が飾ってあるし、玄関先にはバイクやゴーカートまで駐車されている。40歳からはスコップ三味線も始めているから、なんという旺盛な行動力なのだろう。
「これまでの人生、やりたいことは全部やってきたから、後悔していることはないですね。乗りたい車も全部乗ってきたし、東京で購入したゴーカートも全部自分で部品を加工して取り付けた。行動しないと始まらないというのが、私の信念なんです。バイクに乗りたいと思ったら、まず教習所に行って免許をとっちゃう。旅行に行きたいとかさ、みんな思っていることはいっぱいあるけど、元気なうちにまずやってみることが大事だと思うね」。
そう佐藤さんが話すのは、実父の急逝など、身近な人の死を間近で見てきた経験も大きいのだろう。高齢期は、多忙な日常から離れ、様々な「役割」からある程度解放されて、青年期以降に埋没させていた自分自身と再び向き合うことになる。おそらく佐藤さんは若いうちから「人生をどう生きていくか」ということを意識していたのではないだろうか。そうした思いがマグマのようにぐつぐつと湧き上がっていき、それが噴火するきっかけとなったのが、長女が家を出て独り身となった瞬間だったのだろう。そう考えると世間一般で独居とされる時期こそが、じつは人生において芸術が最も人の拠り所になる時期だと言えるのかも知れない。人生100年時代に、僕らは佐藤さんのような充実した余生を送ることができるだろうか。