「知らない」と「わかる」の狭間で。「あ、共感とかじゃなくて。」が提示するものとは
展示タイトルにある「共感」とは、自分以外の誰かの立場に立って考える姿勢のこと。本展では、「共感」が優しさや思いやりの源泉とも言われるいっぽうで、安易に共感されるとイライラしたり、共感を無理強いされると不快感を抱くこともあるとして、この言葉で語られるものを無批判に肯定しない。
参加作家は、ひきこもりの経験を持ちながら当事者をケアする活動家・アーティストの渡辺篤をはじめ、有川滋男、武田力、中島伽耶子、山本麻紀子の5名。
会場に入って最初に出会うのは、見たものに意味を与えて理解しようとするの行為そのものに疑問を投げかけ、これを意図的に中断・撹拌させる作品を制作してきた有川による、「(再)(再)解釈」シリーズ。
企業説明会や展示会を模したビビッドな色彩のブースでは、それぞれ実在する会社を参考に架空の職業を描写した映像作品が流れている。登場人物が業務内容や採用情報を語っており、ブース前のパネルや内部に置かれたオブジェクトの持つ「意味」とあわさって、鑑賞者の想像を掻きたてるのだ。
会場ではブース型の旧作4点に加えて、本展のために制作された新作《ディープ・リバー》を発表。新作は、会場である東京都現代美術館における仕事と深く関わっており、カウンターの数字にも重要な意味があるという。
フィールドワークの手法を通して体感した過程を、絵、写真、映像、染め、刺繍などの形式に展開してきた山本は、2013年から取り組む巨人についてのリサーチを通じて制作した《巨人の歯》(2018)と、近年取り組んでいる「挿し木プロジェクト」を中心にしたインスタレーションを展示。
家を模した空間には、靴を脱いで上がることになる。プレハブのような設えから届く匂いはどこか懐かしく、それでいてあくまで他人の痕跡が強い場所であると感じさせる。《巨人の歯》とこれが横たわる空間を構成する要素はすべてが静かでありながら、身を置いて耳をすませば物語の可能性があふれだしてくる。
当事者性と他者性、共感の可能性と不可能性、社会包摂の在り方を、表現を通して扱ってきた渡辺は、自身が代表を務める「アイムヒア
プロジェクト」による作品など中心に、ひきこもりの当事者であった自身の体験にもとづく表現を展示。
暗幕で区切られた暗い展示室の奥では、球体の一部が照らされ細い月が輝いている。月は時間とともに満ち欠けしているようだ。向かって左側に展示されている《同じ月を見た日》は、月や月が映っている景色の写真を8枚の屏風にまとめたもの。その奥に撮影者や撮影の時間、場所を屏風と同じ図面でまとめたパネルが掛けられており、プロジェクトの様子を伝えている。
向かって右側の壁は、一定の高さがガラスになっているが、そこにはカーテンがかかっている。断続的に生まれている隙間から奥を覗くと、モノクロームの写真が目に入るだろう。ハロー・キティの机の上に焼きそばのような皿とペットボトル、洗濯物が散乱した床、本棚、変哲もない天井といった誰かの部屋をとらえた写真を眺めていると、カーテンから覗くという行為とあいまって、ここにいない誰かの痕跡を見ているとはっきり意識することになる。なお、この写真は、クッションが置かれた展示室中央のスペースにある冊子でも鑑賞できる。
演出家・民俗芸能アーカイバーの武田は、本展で性質の異なる2つの作品を出展。ひとつは「朽木古屋六斎念仏踊り」の記録とこれに対する作家自身の声を交えた映像。滋賀県の過疎集落における民俗芸能の継承、継承による再興への願いを紡いだ物語とも言える本作は、民俗芸能が同じ地に生まれた人々へのプレッシャーになっている面を踏まえつつ、その歴史として権力に争うように勝ち取られたことにも着目している。東京の美術館に居ながら、遠い場所の、けれどいまも確かに生き続ける人々へ意識を巡らせることになるだろう。
演出家としての顔を持つ武田が、「ひさしぶりに演劇としての場づくりを試みた」というキャンピングカーのような車は、《教科書カフェ》。車内の本棚には戦後から平成31年までの検定教科書が集まっており、来場者は広場で閲覧することができる。自身の教育体験を思い出し、対話を生む場だという本作は、まったくの他人だけではなく、過去の自分という他者に想いを馳せる機能をも有しているようだ。
中島は、物事を隔てている境界線の向こう側を音や光を介して知覚しようとし、コミュニケーションの非対称性や対話による分かりあえなさを表現してきたアーティスト。本展では新作として、ホワイトキューブの展示室を分断しアトリウムまで突き抜ける黄色い壁《we
are talking through the yellow wall》を制作。
ボタンを押したときだけ覗き穴に光が入り、向こう側を見ることができるこの作品では、壁の向こう側の気配を探りコミュニケーションを試み、見えないからこそ想像できる希望や、こちらではない側を「ないもの」としてしまう暴力などについて考察している。ドローイング作品《I
don't tell anyone what I don't to say》も見逃さないようにしたい。
展示を一巡してすぐ、「共感」やこれと距離を置くというテーマを読み取ることはできないかもしれない。それでも、5名のアーティストによる「知りたい」と「知ってほしい」を受けて、「これはわかる」と「わからない」の両方と出会うような空間であることは確かだ。どこまで近づこうとしても決して重なりきれない存在として他者を認め、あるいは誰かにすべてを理解してもらうことはできない存在として自身を見つめる瞬間が、ふいに訪れるような展示である。
加えて、展示風景を撮影していると、本展は人々がそこにいて初めて成立するものだと感じざるをえなかった。作品を鑑賞し、その奥にあるものを思案する眼差しを組み込んだ展覧会と言い表すこともできるだろう。一眼で「わかる」と頷き横目に過ぎていくのではなく、あゆみ、ときに立ち止まるという人間の行為が、「あ、共感とかじゃなくて。」というタイトルに込められた想いと重なって見えた。