没後1300年の歌聖「柿本人麻呂」 生誕地も死没地も分からない謎の生涯
◆歌の魅力
<東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ>(万葉集)
これは安騎野(あきの、奈良県宇陀市)で詠んだ代表作で、暁の壮麗な光景が目に浮かぶ。これにちなみ同市の安騎野・人麻呂公園には人麻呂の石像も建っている。
万葉集で人麻呂作とされる作品は長歌・短歌計90首近くに上る。上野誠・国学院大学教授(万葉文化論)は「人麻呂以降の和歌はすべて人麻呂の歌の真似と言えるほどその影響は大きい」と指摘。その上で「飛鳥・藤原の都で死者哀悼、吉野で風土賛美、石見(現在の島根県西部)で恋愛の歌を確立した。(恋愛の歌では)『なびけ、この山』といったダイナミックな表現をした」と語る。
<夏草の思ひしなえて偲(しの)ふらむ妹(いも)が門(かど)見むなびけこの山>(万葉集)
当時の状況は定かではないが、人麻呂が役人として赴任した石見から帰京する際、愛した女性との別れを惜しんでこの歌を詠んだともされる。「石見相聞歌」と呼ばれる歌群の一首目の最終章、女性の家の門口を見たいために動かない山に対し「なびけ」と絶唱した。
◆謎の生涯…歌の神に
優れた歌を残した人麻呂だが、生涯は謎に包まれている。
資料が乏しく、生誕地は奈良県とも島根県とも言われ、死没地も不明。歌の時期から持統天皇の時代に活躍したとみられるが詳細は分からず、ほぼ歌でしか知りえない存在だ。ただ奈良県や島根県などに伝承が残る。
奈良県葛城市柿本では人麻呂が住んだとも生まれたとも伝わり、人麻呂を祭る柿本神社が鎮座している。社伝によると、石見で逝去した人麻呂を改葬し、神社を建てたという。
同神社ではかつて木彫像を囲んで歌会が行われたといい、「像のはめ込み式の首は夜中に月の出る方向に向く」といった不思議な言い伝えも。さらに命日とされる4月18日には今も住民らが人麻呂をしのび、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願う「ちんぽんかんぽん祭」という行事が続けられている。
「地元はもちろん遠くからも参拝され、今なお人麻呂の偉大さを感じる。やはり歌に心を揺さぶるものがあるのでしょう」。そう話すのは同神社を守護する神宮寺として創建された影現(ようげん)寺の深水弘裕住職だ。
奈良県内にはほかにもゆかりの地があり、同県天理市櫟本町には人麻呂が出た柿本氏の氏寺、柿本寺があり、寺跡には人麻呂の遺骨(遺髪とも)を葬ったという「歌塚」も残る。
◆終焉の地、聖地に
一方、人麻呂の時代に国の中心だった奈良から遠く離れた島根県益田市。ここには生誕地(戸田柿本神社)、そして死没地のいずれもが伝わっている。
終焉の地と言われるのは万葉集に「石見国にいて死期が迫ったときに自ら悲しみ作った」との記載と次の歌があるためという。
<鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ>
岩を枕に横たわり女性に思いを寄せる歌だが、「鴨山」がどこを指しているのかは定かではなく、島根県内でも諸説ある。
このうちの一つが、かつて益田市の高津柿本神社の沖にあった鴫島(鴫山)だ。同神社は全国に約400社ある人麻呂を祭る神社の本社という聖地で、社伝によると鴨島に小社が建てられたが、平安時代後期の地震で島は沈み、ご神体は同市の高津松崎に漂着。社が建てられ、江戸時代には一帯を治める津和野藩主が現在地に移したという。
中島匡博宮司は「人麻呂は万葉集でひときわ輝きを放ったが、さまざまなご神徳があり多くの人に親しまれてきた」と強調する。石見に和紙の技術を伝えたとされることから産業振興、さらに人麻呂に「火止まる」をかけて防火、「人産まる」で安産…。益田の人々は、敬愛を込めて人麻呂を「ひとまるさん」と呼んでいる。
今年は8月26、27日に市民らが没後1300年祭を開く。親しまれてきた「ひとまるさん」像を再発見しようと、人麻呂の「石見相聞歌」をもとにした音楽の演奏・合唱や記念講演会、朗読劇などを予定している。
「1300年前の活躍を思い起こして次の世代に伝えてほしい。地域の発展にもつながれば」。各地域で人麻呂が敬愛されてきた歴史を思い、中島宮司はそう願いを込めた。(岩口利一)