千田嘉博のお城探偵 長篠合戦偲ぶ交通至便の地 愛知県・茶臼山信長本陣
しかも勝頼は最強の武田軍を率いる総大将として、実は期待されてもいなかった。信玄は遺言で、勝頼は武田家当主を継ぐべき勝頼の子・信勝が成人するまでの代理人(陣代)と言明し、合戦で武田軍の総大将が掲げてきた武田家代々の旗「孫子の旗」を、勝頼に対しては使用禁止と定めた。
信玄が軍事遠征の途上で病死したというのも、勝頼にとってはひどい出来事だった。つまり信玄は、勝頼に対して事前に軍事指揮権も政治権限も移譲せず、生涯現役のまま突然人生を終えたからである。家督を継いだ勝頼は、山梨県の美和神社に願文を捧げた。そこに「勝利を重ねて武名を天下に轟かせ、怨敵を撃破する」と記した。四方の敵に打ち勝って実力を見せつける以外に、勝頼の道はなかった。そして勝頼は信玄を上回る勢いで合戦に勝利して領国を広げていった。
1575(天正3)年4月に勝頼は愛知県新城(しんしろ)市の長篠城を包囲して攻めた。徳川家康は織田信長に援軍を依頼し、5月に信長は多数の鉄砲を装備した軍勢を率いて到着した。織田・徳川連合軍は連吾川に沿った狭い谷地形の西側に陣地を定め、前面に馬防柵をめぐらした。織田・徳川連合軍が本格的な城を築いたという説もあるが、それは評価しすぎだと思う。
そして連合軍の後方の茶臼山に信長の本陣があった。5月21日の夜明けに連合軍の奇襲部隊が長篠城を包囲していた武田軍の砦を落として長篠城を解放すると、武田軍には決戦の選択しかなくなった。
両軍の激突は午前6時頃に始まり、午後2時頃まで続いた。茶臼山本陣で指揮した信長は、戦線の南端で最も危険な戦場を受けもった徳川軍を援助するため、最前線の高松山・家康本陣に移動した。この家康本陣で二人は一緒に軍勢を指揮して勝利した。
信長が当初に本陣にした茶臼山は小高い山の上にある。神社がある山頂の一段高い場所は土塁の跡で、その土塁で守った出入り口も残っている。本丸の周囲には帯曲輪が続いていて、信長の親衛隊が駐屯したのだろう。
この茶臼山の信長本陣は現在、交通至便な場所にある。なんと本陣に接して、新東名高速道路・長篠設楽原(したらがはら)パーキングエリア(PA)が設置され、車を止めて気軽に信長本陣が見学できる。各地に高速道路のPA・サービスエリア(SA)はあるが、信長の本陣を訪ねられるのはここだけである。
そしてこのPAにはレストラン「長篠陣屋食堂」や武将グッズの店まで完備する。この充実ぶりは450年前の信長本陣に明らかにまさっている。信長もびっくりだと思う。(城郭考古学者)
■茶臼山信長本陣 武田勝頼率いる武田軍との長篠の合戦の際に織田信長が構築した本陣。「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」と信長が心境を詠んだとされる歌碑がある。この合戦で武田軍は大敗し、衰退のきっかけとなった。