「動く長谷川町子」の姿に、人々が驚愕…『サザエさん』を生み出した、孤高の天才漫画家の生涯
〈大正九(一九二〇)年九州佐賀に生まれ、その後福岡に移りました。私の父は機械製作所を経営などしていたエンジニアで、その在世中は、物質的にも精神的にも真に恵まれた生活でした。私は姉妹の真ん中で、姉といっしょに三つ四つのころから絵を描くのを、一番好きな遊びとして……子どもノートを日に四、五冊は描きつぶしていました〉
長谷川町子は1949(昭和24)年に雑誌に寄稿した「私はこうしてやって来た」というエッセイで、こう述べている。だが13歳の時、最愛の父が急死し、母・貞子、姉・毬子、町子、妹・洋子の女4人が遺された。
母は町子の才能を信じ、一家で上京。『のらくろ』で一世を風靡していた田河水泡に弟子入りさせる。子供がなかった田河夫妻は町子を自宅に住み込ませた。
15歳で『少女倶楽部』('35年10月号)に『狸の面』を発表し、「天才少女」と騒がれた。その後も漫画を発表し続けたが、戦局が激しくなった'44(昭和19)年3月、福岡に一家で戻った。徴用逃れで西日本新聞に入社するが、終戦後退社した。
再びエッセイを引用する。
〈終戦の翌年、しばらくぶりで、西日本新聞の夕刊紙から、連載漫画を依頼されました。あれこれと主人公の選択に迷ったあげく、身近なところで題材がえられるので、若い女性を選びその名もサザエさんと名付け、そのほかの登場人物も全部海産物の中から名を取りました。これは私どもが海岸近くに住んでいたので、朝夕磯辺を散歩しているうちにヒントをえたものです〉