【古典俳諧への招待】牡丹散(ちり)て打(うち)かさなりぬ二三片―蕪村
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第21回の季題は「牡丹」。
牡丹散(ちり)て打(うち)かさなりぬ二三片 蕪村
(1769年頃作、『蕪村句集』所収)
牡丹は初夏(5月初旬)に大輪の花を咲かせます。その姿は「花の王」と称され、画題としても好まれました。蕪村のこの句は、牡丹の豪華絢爛(けんらん)な美しさを、散り落ちた花弁によってとらえたところに特徴があります。「咲き誇っていた牡丹の花。いつのまに散ったのか、地面に2枚3枚と花びらが重なり落ちている」。花びらは散ってもまだみずみずしいのでしょう。そしてその上、低い枝の先には、今にも崩れ落ちそうな危うい花の塊があるのです。
「散て」は「ちって」ではなく「ちりて」。蕪村自身が平仮名で書いた資料が残っています。5・7・5音ではなく6・7・5音と字余りになりますが、そのなだらかな調べが、ひっそりと静かに花弁の散るさまを感じさせます。蕪村の弟子の几董(きとう)は、ただ散ったのではなく「打かさなりぬ」としたのが工夫で、「ニサンペン」と音読みの文字を使ったのは題の「牡丹」(ボタン)の響きに合わせたからだと解説しています。見たままを素直に詠んだのではなく、細かな計算が行き届いた句です。
さてこの牡丹は何色でしょうか。白牡丹の清らかさも捨てがたいですが、蕪村の牡丹は基本的に赤色のようです。他を圧倒する赤い花の美しさを好んだのでしょう。例えば、「閻王(えんおう)の口や牡丹を吐んとす」(『蕪村句集』)という句は、閻魔大王が牡丹を吐き出そうとしているという奇想天外な表現で、見る者に迫ってくるような真っ赤な花の勢いをとらえています。
深沢 了子
聖心女子大学現代教養学部教授。蕪村を中心とした俳諧を研究。1965年横浜市生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。鶴見大学助教授、聖心女子大学准教授を経て現職。著書に『近世中期の上方俳壇』(和泉書院、2001年)。深沢眞二氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。