AIに無防備に評価されない為に手放すなとハイデガーの思考が示唆する1つのもの《21世紀の必読哲学書》
混迷を深める21世紀を生きる私たちが、いま出会うべき思考とは、どのようなものでしょうか。
ニーチェは「力への意志」を特徴づけるであろう説明のひとつとして「みずからが強さを増す感情」と述べていた。この意志は、いわば感情の強度の高まりとして「力の増大」を示す。「喜ばしい感情」が例示されているが、しかし純粋に感情の高まりとしてみられた場合、「喜び」とは限らないだろう。ハンマーでもってする哲学には破壊が付きものだが、それには不快や嫌悪の感情も必要である。ニーチェにとってそうした消極的な感情のもっとも顕著な発露は「吐き気」である(ニーチェを含むこの情動の思想史的探究として、ヴィンフリート・メニングハウス『吐き気』参照)。
他方、ハイデガーの哲学にも、私たちを存在論的な次元で浸している根本気分についての探究があり、たとえばそれは「不安」や「退屈」や「郷愁」や「虚無」といった一連の情動である(1929/30年講義『形而上学の根本諸概念』等参照)。ニーチェの「力への意志」を貫く根底的な情動としてこれらは不可分と考えることができるだろうが、ただちに「力の増大」を示すものではない。これらは「感情の高まり」というより、「感情の低まり(? )」の索漠たる広がりにおいて「力への意志」を裏打ちするような情動と言えるだろう。
レヴィナスであれば「不眠」「倦怠」「疲労」「怠惰」と述べて、ハイデガーの「力への意志」の解釈に異議を申し立てたかもしれない。しかしレヴィナスの情動論も一連の実存感情の幅のなかで捉えるならば、ハイデガーの気分論と大きく異なるものではないだろう。いずれにせよ「力への意志」は──先に述べたようなファシスト的主体感情と一線を画すためにも──その消極的な力の様相においても再解釈されなければならない(おそらくアガンベンが書記バートルビーに見いだしたように、力への無意志、力なき力への意志をいっそう探究しなければならない)。