「文化」になったスニーカー、世界を席巻した歴史をひもとく、市場規模は10兆円超
スニーカー文化が生まれるきっかけとなったのは、1970年代後半から80年代前半にかけて、アスリートの名前が使われたモデルの登場だと考えられている。当時のバスケットボールシューズの定番は、コンバースの「CHUCK TAYLOR ALL STAR」で、プーマやアディダスといったブランドもその流れに加わるようになった。
「ニューヨークで起きていたのは、バスケットボールとヒップホップ、そしてブレイクダンスの融合でした」。カナダのトロントにあるバータ靴博物館の館長兼シニアキュレーターのエリザベス・セメルハック氏はそう話す。バータ靴博物館は、2013年に北米の博物館としてはじめて、スニーカーの歴史についての展示を行った。
しかし、スニーカー文化を真の文化に押し上げたのは、1985年に発売されたナイキの「エア ジョーダン 1」だった。1984年当時、マイケル・ジョーダンは有望な新人だったが、まだプロの試合には出場したことがなかった。それでも、ランニングシューズのメーカーとしてしか知られていなかったナイキは、ジョーダンにブランドの未来を託して250万ドル(約3億4千万円)で5年間の契約を結んだ。
エア ジョーダン 1はこれまでのバスケットボールシューズのイメージを一新した。白、黒、赤という大胆な色使いだったので、シューズの51%以上は白でなければならないとしたNBAの指針に違反していた。しかし、これを商機とみなしたナイキは、選手に代わって毎試合5000ドル(約70万円)の罰金を負担しつづけた。
この戦略は成功した。ジョーダンはバスケットボール界に名を刻む選手となり、エア ジョーダンの人気も爆発的に上昇した。
スニーカー文化はバスケットボールのコートの外にも飛び出すようになった。1986年には人気ヒップホップグループ「Run-D.M.C.」が「My Adidas(マイ・アディダス)」というシングルをリリースし、初めてアディダスと契約を結ぶことになった。その直後、バンド「ニルヴァーナ」のカート・コバーンは、コンバースを反抗と若者の象徴とした。
同じころ、もう一つの文化の変化が起きた。ホワイトカラーにおけるカジュアルフライデーの導入だ。「男性の服装が解放されたのです」とセメルハック氏は言う。「週に一日、スーツを手放して、自分の個性を表現するものを身につけられるようになりました」