新書大賞受賞・千葉雅也 人々がバラバラになるのがやむをえなかったから「現代思想」はその理論化を試みた。「共」の可能性は、徹底的に既成の秩序を疑った先で考え直すことができる
「ポスト構造主義」という言い方ですが、これはデリダやドゥルーズらをひと括りにして言うときに使われるものです。
「ポスト」とは「後」という意味で、「構造主義の後に続く思想」ということになります。ただ、本人たちがそう自称したわけではなく、この呼称に対しては批判もあります。ここではとりあえず、デリダらを括るためのフォルダとして、中立的に使うことにさせてください。
ポスト構造主義については、「ポストモダニズム」、「ポストモダン思想」という言い方もされたりしますが、こちらは悪い意味で言われることもあるので、あまり積極的に使いたくないものです。ポストモダン、すなわち「近代の後」と言われるときには、一九七〇、八〇年代以降が想定されることが多く、その時期がポスト構造主義の時代です。
このポストモダンという時代区分について説明しておきます。
ポストモダンとは「近代の後」です。そもそもの「近代」とは、今日我々が生きる社会の基本ができた時代で、一七から一九世紀あたりを指します(学問分野によって範囲が異なります)。近代とは、市民社会や進歩主義、科学主義などが組み合わさったものです。
大まかに言って、近代は、民主化が進み、機械化が進み、古い習慣が捨てられてより自由に生きられるようになり、「人間は進歩していくんだ」と皆が信じている時代です。皆が同じように未来を向いている。
その後、世界経済が、つまり資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、「大きな物語」が失われた、と表現します(この「大きな物語」という概念はジャン= フランソワ・リオタールというやはりポスト構造主義の哲学者によるものです)。
そうした状況は、九〇年代後半からのインターネットの普及によってさらにはっきりしました。今、SNSを眺めてみれば、細かに異なる無数の主義主張が言われているわけですが、そういう多様性によって世界がより幸福なものになったかというと、むしろ、いざこざの可能性が増えて世界はよりストレスフルになってしまったと思います。僕にはそのように現状に対するネガティブな思いがありますが、それはともかくとして、今でもなお誰もが進歩を信じて未来を向いている近代なのだろうか? という疑問を持つのはそう変なことではないでしょう。