競技かるたに懸ける青春―「畳の上の格闘技」を描き、現実社会にも多大な影響を与えた『ちはやふる』の世界
昨年12月13日に発売された第50巻で完結した『ちはやふる』は、競技かるたに打ち込む高校生たちの姿を描いた少女マンガの傑作。アニメ化、映画化もされ、海外でも出版・放送されてかるたに興味を持つ人が増えている。連載開始から15年にわたって描かれた競技かるたの奥深さと、多くの読者が共感した青春の物語を読み解く。
東アジアの遊びと近代スポーツの概念、古代からの伝統を持つ日本文学と西欧のカードゲームが、遠い距離とかけ離れた時間を超越して出会い、生まれてきた「畳の上の格闘技」。それが競技かるただ。
2007年、少女マンガ誌「BE・LOVE」(講談社)に第1話が掲載され、その後、15年にわたって連載。22年に完結した末次由紀氏の『ちはやふる』は、その競技かるたに打ち込む若者たちを描いた、現代少女マンガの傑作だ。必ずしもメジャーとはいえなかった競技を取り上げ、その奥の深さを描き、アニメ化、実写映画化も行われる大ヒット作となった。
「かるた」の語源はポルトガル語の「Carta」。英語でいえば「Card」だが、これは大航海時代の16世紀、ポルトガルの船員によって日本に伝えられた。
彼らが遊んでいた「Carta」は、地中海沿岸で使われていたラテンスート(トランプの前身)。棍棒、剣、聖杯、貨幣の4文標からなるが、当時の日本人は聖杯の図版の意味がわからず、「巾着袋」だと誤解して描いていたという(『かるた』江橋崇/法政大学出版局)。
しかし17世紀に入ると日本は、徳川将軍が鎖国を行って海外との交流を制限するようになる。そうした時期「Carta」も日本独自の札に変化し、「短歌」と呼ばれる詩が記載され、さらに詠み人の肖像画が入れられたセットが人気を博すようになった。そうして「Carta」から、「かるた」が誕生したと考えられている。
短歌とは5 7 5 7 7というたった31の音から成る、ごく短い歌(詩)の形式。その伝統は古く、古代からずっと詠まれてきた。その中でも「かるた」に記載されるのは、「百人一首」と呼ばれる100のセレクションで、第1番目は天智天皇作とされる歌。収穫の季節に、更(ふ)けていく夜の情趣が歌われている。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇はまだ各地の豪族が力を持っていた7世紀に、日本の中央集権化を進めた天皇だ。最後の100番目は順徳院。こちらは13世紀、父親と共に政治の主導権をめぐってサムライと争い、敗れて配流されてしまった天皇である。
100選に選ばれた歌は天皇の作だけではなく、むしろ下級貴族や僧侶のものも多い。ちなみにもともと短歌は決して優雅なセレブだけの趣味ではなく、サムライや商人出身の歌人もいたし、「万葉集」という最古の歌集には庶民や辺境を守る兵士の歌も収録されている。
「かるた」ではこの歌の前半が読み上げられて、プレーヤーはその後半の札を取ることを競う。
もともとは短歌の学習のために考えられた遊びだというが、やがてゲームとして独立。それが19世紀に入って日本が外国との交流を再開するようになると、再びローカルの伝統とグローバルな近代スポーツの概念が交錯して、「かるた」は競技としてルールが統一されていくようになる。
当時の帝国大学(現在の東京大学の旧称)ではかるた会が催され人気があったというが、それはひとつには男女の出会いの場。昔は今と違って出会い系アプリもSNSもない。こうした時代に男女ともに参加する「かるた会」は貴重な交流の機会だったそうだ。