[ARTIST IN FOCUS]工藤麻紀子:日常と瞬く記憶をたよりに風景にイメージと感情を再構築する
2年弱かけて準備した展覧会が無事オープンし「気が抜けた」という工藤は、大学在学時の1999年から現在までに制作された作品を一覧して、「感傷的な気分になるのかなと思っていたけれど、意外と冷静に見れた」とあっさりした口調で語った。自身が過去20年に制作した約120点の作品を振り返ってなされたこの発言は、自己イメージの形成に躍起になる現代のアーティストたちから遠く離れた場所で、工藤が淡々と、しかし着実に自らの絵画制作を続けてきたことを感じさせた。
初期は幅の大きなブラッシュ・ストロークが大胆に使われた彩度の高い色面を多用し、《もうすぐ衣替え》(2003)をはじめとするポップなイメージを散りばめた心象風景を描いていた。いっぽうで、デビューのきっかけとなった《よなような》(2001)など、暗い色彩の作品も散見される。「昔は家の中で夜に制作していたことが多くて、あと色同士のぶつかり合いが楽しくて。いまは自然の風景を描くことが多いせいで、色が明るく変わってきていると思う」。作家自身が認めるように、近作では蛍光色を効果的に使い、細部を描き込む描写へと向かいつつある。「昔の作品を見返してみて、薄く一度塗りした絵が多いと思った。最近は細かく、複雑に描きすぎているように思ったから、これからは昔みたいに大胆に描いてもいいのかな」。
初期の不安定な内面を描く夜のような黒色はしだいに消えてゆき、2011年頃から、昼の自然光に祝福された温かい色彩が多用されるようになる。「油絵具って宝石を壊したみたいに綺麗だなって。乾いた上に重ねたりすると、奇跡のようなことが起こる。絵具には本当に助けられてるってずっと思ってる」。近作では、薄塗りと厚塗りの描き分けや複数のレイヤーに及ぶ塗布、絵具の滴りによって生み出される物質性が作品に複雑な立体感を与えている。
夢と現実の心象風景としての再構築
夢と現実が混在する風景を描くスタイルは初期から変わらない。作品のベースとなるのは、彼女が実際に見た光景だ。「私が描いているのは身の回りの風景で、空が狭い風景の絵を描くのは実際にそういう場所で暮らしているから。住む場所が変われば、きっと描く風景も変わると思う」。《空気に生まれかわる》(2020)では、自宅からほど近い住宅街の風景の上に、様々な動植物と、存在感が希薄な、幽霊のような薄塗りの顔が重ねられている。工藤が関心を寄せるのは、植物、動物、水辺といった、「人と自然が混じって自然が負けじとしているような(*1)」環境で、そこに夢や心のなかのイメージが混じり合い、性質の異なるモチーフがゆるやかな関係を結び、物語性のある独自の絵画空間が生まれる。「日常を絵によって消化している感じがする。夢を見ることで脳が記憶を消去するっていうけれど、絵を描くことはそれに似ていると思う。描くイメージは、あのときの何かを思い出すって感じで、パッと出てくる」。歴史家のミシェル・ド・セルトーが述べる通り、「日常的なものには、想像的な全体化を目指す目から逃れてしまう異者性がある(*2)」ならば、工藤の作品は、日常の忘却のプロセスに組み込まれそうになる断片的な弱い記憶をすくいあげ、それを絵画空間内に配置し、ゆるやかな統一性を与えて保存しようとする試みなのだろうか。工藤は自身の絵画を「夢と現実の心象風景という再構築」と定義している。
いっぽうで、住む場所を変えても通奏低音のように工藤の無意識に流れている景色や、彼女独自の身体感覚に基づく線のかたちが確かに存在し、それが画業の全体に感じとれる。《夏子と冬子》(2005)、《よるのともだち》(2020)をはじめとしたいくつかの作品には、点描による赤い実が輝く。猫、水、川、格子柄、縞模様などがひとつの作品から他の作品へと移動するように繰り返し現れる。《インフルエンザ》(2001)、《Untitled》(2020)に見られる、反復横跳びのように往還する線描は、《光が見える》(2017)、《こんがらがって》(2019)の表面を覆う、蔦のような脈打つオールオーヴァーな模様へと発展しているようにも見える。工藤にそれらのモチーフの由来を聞くと「よくわからない」とはぐらかされたものの、故郷・青森の自宅前にひろがっていたリンゴ畑や、シュルレアリスムを参照しながら「自動筆記のようなもの」と工藤が呼ぶところの「手癖」による衝動的な手の動きなど、思考や直接的な視覚が介在しない、幼少期に形成された無意識と身体の世界が織り込まれているのは明らかだ。とくに、工藤にとって「手癖」は無意識的なものであるゆえに、工藤の絵の性質を決定しているという。「手癖で描いているから、違ったふうには描けないと思う」。今回の個展では展示されなかったが、日々制作される紙上のドローイングには、衝動的に描き殴られる線描によって人物や植物の線が現れている。
風景の中に人物=感情を描くこと
工藤はフラッシュする記憶と視覚のイメージを、下図をつくらずに、複数のパースが混在するカオティックな構図に落とし込んでゆく。遠景には幅の狭い単色の色面が斜めに横切り、前景には植物が画面の端を切断するように描かれることが多い。前景の植物によって、鑑賞者は画面により近い位置に立たされる感覚へと導かれる。配置されるモチーフは、わずかな例外を除いて人物像とセットで描かれることになる。人物は伏し目がちで、物思いに耽けるか、悲しそうな表情を浮かべていることが多い。風景と人物の比率は一定で、画面を満たすことも、小さく描かれることもない。絵具が薄く(場合によっては地の色の上に)塗布された色面で構成される人物像は、風景に張り付いたシール、あるいはスクリーン上で移動可能なデジタル画像のようで、少しだけ浮遊しているように見え、根付く場所をどこにも見出せずにいる。
「わたしにとって、人物はペラペラな存在に見えるんです。立体感があるはずがペラペラして見えるというか。人物像を描くときは、人というよりも、感情を描いているような気がしている。動物はどちらかというと背景のほうにいて、物語の登場人物って感じ」。
工藤の描くキャラクターは、前景に描かれる灌木と、遠景のフェンスのような空や川の間に挟まれて圧縮された狭い絵画平面の隙間で行き場をなくしているようでもある。この感情の入れ物としての人物が、手前に立ち上げられたような風景と部分的に重なり、あるいは植物の色彩に侵食され、内面と外の世界、平面と立体の間を揺れ動く印象を与える。《幽霊屋敷》(2019)や《菜の花ラーメン》(2020)では、顔にそれぞれ桜の花、菜の花が重なり、人物の存在は希薄になっている。先述した《空気に生まれかわる》に点在する顔のむれは、工藤の人物表象の在り方を象徴的に示しているようだ。
「私は人物を描きたいとは思っていなくて、風景を描きたいと思ってる。人物は人物として描いていないと思う。人物が必要になるのは、風景を見たときの感情を表現するため。風景は絵画として描いて、人物は二次元的に描いてる。風景は実際に見たものとか、写真を見ながら描いていることもあるから、リアリティーがあるのかもしれない」。
二次元と三次元、感情と自然、地と図、真昼と真夜中、補色関係にある色彩、競合する複数のパース。ぶつかり合って崩壊してしまいそうな複数の要素が、作品全体としては均衡をとっている。彼女とのインタビューのなかで何度も語られたのが「作品のなかでバランスをとる」ことであった。工藤の絵画は、一見すると色彩とモチーフの祝祭のように映るものの、本来は異質であるはずの要素が絵画空間内では均衡を保っている様子は、不安な状況をこらえる精神構造のイメージ化であるとも言える。そこに描かれる人物は、精神分析家のD・W・ウィニコットが定式化した通り、人間が発達をとげるなかで見つけ出す、自己にも世界にも属さない第3の場、移行空間(可能性空間)に存在する「移行対象」と言えるだろう(*3)。鑑賞者の側にも、風景の側にも属さない場を与えられた工藤の描く人物は、それゆえに、どちら側にも同時に属することができ、風景に抒情性を与えるトリガーになる。
工藤が「作品のバランスをとる」ためになされる仕掛けは、例えば、かつて住んでいた街の風景をコラージュ風に描いた《春から夏の思い出》(2021)の、鬼や人物のようなイメージが茫として処理されている部分や、女子美術大学在学中に描かれた《まいご》(2001)の、画面右に見られるイノシシに似た動物が描かれる箇所に見てとることができる。「大まかに全体を描いていって、そこで部分同士をどうやってつなげようかと思うときに、ごまかすっていうか、つなげるために、隙間を埋めるように描いている」。工藤の作品を見るとき、まず大きなモチーフが認識され、時間の経過とともにこうした余剰の細部が知覚されることになることも特徴のひとつであり、これがボナール、マティスをはじめとする近代絵画史の潮流に工藤が位置付けられるゆえんであろう。
人間への眼差しの変化
幽霊のように存在感が希薄で、抽象化されたキャラクターに対して、動物や自然は立体的に、そして細部まで描かれている。近所の豆腐屋からもらってきたという愛猫の「もめんちゃん」が描かれた《流星群》(2015)をはじめとして、とくに猫の描写は明瞭である。工藤の作品の根幹をなすのは自然や動物に対する愛なのだろうか。工藤は人間中心主義の社会について、「人のエゴで飼い慣らされたりする動物、つくり変えられる自然に対して、後ろめたさや罪悪感を覚える」と語る。それは、原発事故や自然破壊など世界規模の環境問題に対する現代アートの解答などという大袈裟な身振りではない。失われてゆく記憶や、普段の生活のなかで感じられる違和感が作品に反映され、それが見る者の共感を呼ぶ。
「人間がいなければ動物や自然も良くなるだろうかと思っていたけれど、コロナがきっかけになって、少し意識が変わってきた。性悪説で人を見ていたけれど、コロナが始まってから、人は小さなウイルスで右往左往するような弱い存在で、そして展覧会を準備するなかで、意外と人って助け合って生きているんだなと思った。そんなに弱いなら、少しくらい人間の味方をしてもいいんじゃないか、って気になってきた」。
今回の世界規模の災厄をきっかけとして、工藤の人間存在への眼差しは確実に変化しており、それは我々の多くが経験した変化と並行関係にあるのではないだろうか。同じ光景を表現した平面と立体からなる作品《今から伺います》(2022)では、「ペラペラな存在」であったはずの人物が木彫で立体的に表現されているのだ。人間存在への関心がいま、回帰しつつある。
*1──「ハンス・ウルリッヒ・オブリストと工藤麻紀子の対話」、工藤麻紀子『空気に生まれかわる』美術出版社、2022年、139頁。
*2──ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳、ちくま学芸文庫、2021年、236頁。
*3──D・W・ウィニコット『改訳 遊ぶことと現実』橋本雅雄・大矢泰士訳、岩崎学術出版社、2015年、55頁。
(『美術手帖』2022年10月号、「ARTIST IN FOCUS」より)